2008年07月20日

浦上村渕庄屋志賀家墓地

浦上村渕庄屋志賀家墓地(稲佐悟真寺国際墓地)
 市指定史跡 昭和52年3月25日指定
浦上村渕庄屋志賀家墓地
 志賀家は、江戸時代初期から天領長崎3カ村の一つである浦上村渕庄屋を勤めた家柄で、始祖志賀親成(ちかなり・?〜1622)初代庄屋親勝(ちかかつ・?〜1640)以降、代々の墓碑20基がある。墓碑によると、志賀氏は豊後大友氏の庶流で大友氏除封後長崎に流寓、当時長崎奉行で同族同郷の竹中重興(しげおき)によって浦上渕の庄屋に任命されたといわれている。
11世親憲(ちかのり)は安政5年(1858)稲佐ロシア人休息地開設に関与し、その長男の親朋(ちかとも・1842〜1916)は、その環境から露語通訳となり、幕末にはロシア留学(1866)、維新前後には対露外交交渉(千鳥謙太交換条約など)に通訳として関与した。
長崎市の文化財より

浦上村渕庄屋志賀家墓地


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2008年07月19日

ロシア人墓地

稲佐悟真寺国際墓地(ロシア人墓地)
日本の亜使徒ニコライ大主教の記念礼拝堂
 安政5年(1858)ロシアのフリゲート艦アスコルド号の艦内でコレラが発生し、死亡した乗組員を埋葬するために造られた。後に、日露戦争で犠牲となった兵士を合葬した集団墓地を含め270基のロシア人の墓が造られる。
 墓地内のロシア正教の白いチャペルは、「日本の亜使徒ニコライ大主教の記念礼拝堂」で、昭和40年代に再建されたもの。ロシア艦隊が長崎で越冬し、稲佐一帯が「ロシア村」と呼ばれていた当時を偲ばせる建造物。
 ロシア正教の十字架は、横棒が2〜3本、下の1本が斜めになっているのが特徴である。
ロシア人墓地
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2008年07月18日

オランダ人墓地

稲佐悟真寺国際墓地(オランダ人墓地)
稲佐悟真寺国際墓地(オランダ人墓地)
 日本人墓地に隣接したオランダ人墓地は、赤いレンガで囲まれ、静寂とした中に、板型の寝墓や碑が整然と並んでいる。(大正7年(1918)墓地の門と煉瓦塀がオランダ政府によって設置)
 オランダ人墓地は、出島で亡くなったオランダ商館長や館員、渡来の途中で病死したオランダ人のために造られ、慶安2年(1649)オランダ特派使節ブロホビウスを葬ったのが最初である。
 このオランダ人墓地に眠るジェイムズ・ラインフォードは貿易関係の仕事をしていたオランダ商人で、明治3年(1870)、長崎在住中、53歳で死去。悟真寺のオランダ人墓地に埋葬された最後の人物となった。この墓碑の横の部分に「八ツ橋之を建つ」という文字が刻まれている。これは八ツ橋という丸山の大藤屋抱えの遊女が建てたもの。
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2008年07月17日

グスタフ・ウィルケンス墓碑

グスタフ・ウィルケンス墓碑(稲佐悟真寺国際墓地)
グスタフ・ウィルケンス墓碑(稲佐悟真寺国際墓地) 中国人墓地の上段の奥に入ると、ポルトガル、アメリカ、イギリス、フランス人らが葬られた一画がある。この中にグスタフ・ウィルケンスというドイツ系アメリカ人の商人の墓碑がある。
 彼は開港後の安政6年(1859)に長崎へ来航し、外国貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者となり、明治2年(1869)1月、37歳の若さで亡くなった。彼は死ぬ時、自分の財産の全てを丸山遊女・玉菊に与えた。玉菊はその財産の大半を使ってグスタフ・ウィルケンスのために大きな墓碑を建てたと言われ、側面に「津国屋内 玉きく」の文字が刻まれているのが見られる。墓碑は丸い舵取りを模った中に十字架を入れた立派な墓碑である。

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2008年07月16日

唐人墓地

稲佐悟真寺国際墓地(唐人墓地)
唐人墓地
唐人墓地・馬蹄型 唐人墓地で年号が判別できるもので約230基あり、このうち福建省出身者の墓碑が65%を占めている。
 中国人墓地墓碑は、蒲鉾型の寝墓の前に板碑を立てたのが一般的だが、唐人墓地特有の馬蹄型背面をもつ墓も見られる。

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2008年07月15日

稲佐悟真寺国際墓地

稲佐悟真寺国際墓地
 長崎市には3箇所(稲佐・大浦・坂本)の国際墓地があるが、そのうち最も古い歴史を保つのがここ稲佐悟真寺国際墓地である。広大な赤いレンガで囲まれた墓域は、唐人墓地・ロシア人墓地・オランダ人墓地、その他の外国人墓地に区分され、様々な様式の墓碑が佇んでいる。
 1602年(慶長7)、当時長崎唯一の仏教寺院であった悟真寺に中国人のための墓が設けられ、鎖国政策の確立後には出島に住むオランダ人の墓地も造られるようになった。1858年(安政5)にはオランダ人墓地の上段にロシア人墓地が造られた。墓地内にはロシア正教会の小さなチャペル(礼拝堂)がある。
稲佐悟真寺国際墓地墓地入口の蓮池
上記写真は、稲佐山登山道路より稲佐国際墓地へ下に続くレンガ塀と墓地入口の蓮池

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2008年07月14日

大龍山泰三寺

大龍山泰三寺(たいさんじ) 長崎市曙町30-3
 海雲山晧臺寺(こうたいじ)(長崎・寺町)の末寺
大龍山泰三寺
 大正9年(1920)、晧臺寺副寺の新発田漢三は、 晧臺寺二十七世霖玉仙の援助を受けて晧臺寺稲佐説教所を開創しました。
 昭和6年(1931)、現在の地に移転、 昭和15年(1940)、曹洞宗稲佐教会として認可されたのち、昭和20年(1945)、 寺号を大龍山泰三寺と公称し、法地寺院に昇格しました。
海雲山晧臺寺資料より
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2008年07月13日

弁財神社鳥居

弁財神社鳥居(長崎市曙町)
弁財神社鳥居/
額束 爆心地から南へ約2,200mの距離にある弁財神社は、1890年(明治23)にこの地に弁財天を祀ったものであるが、この鳥居は1895年(明治28)に神社階段下の入り口付近に設立された。
 1945年(昭和20)8月9日、午前11時2分、原子爆弾の炸裂による爆風で鳥居の上半分は倒壊し、残った柱は1960年(昭和35)に道路拡幅工事に伴い現在地に移設された。
長崎市・銘板より

※写真は原子爆弾の炸裂による爆風で壊された「額束」

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2008年07月12日

稲佐の弁財天の由来

稲佐の弁財天の由来(長崎市曙町)
稲佐の弁財天 寛永の昔、現在の淵神社の処に弁財天を祀る御堂があり、その地が旧稲佐村内であったところから、俗に「稲佐の弁天さん」と称していた。
 正保4年(1647)この地(浦上淵村)に長崎寺町・延命寺の開基・龍宣が一寺を設け、宝珠山万福寺と称した。この寺は開創以来24年間、延命寺住職の兼帯であったが、明暦2年(1656)に至り、龍宣の法嗣たる龍盛を以って第二代の住持となし、その後、延命寺の末寺となった。
 明治3年(1870)神仏混淆禁止の為、この寺は純然たる神社となり、淵神社と改称し、ご本尊弁財天並びに脇侍二体を延命寺に送った。
 明治22年(1889)村内有志発起して再び稲佐村に弁財天奉仕の議を起こし、翌23年この地に弁財天、二体を延命寺より迎え、村内にて資材を寄進し、稲佐万六氏社(旧稲佐村氏神)を改修し、稲佐氏並びに弁財天を合祀した。
弁財天説明板より


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2008年07月11日

旧稲佐国民学校

 渕神社裏門より「つばき坂」と呼ばれる坂道を上がると稲佐小学校へ通じる。
 つばき坂は、昔、石畳の情緒のある坂で(現在はアスファルト)、大正時代の頃にはこの坂にそった土手に沢山の椿の花が咲いていたという。坂の下には椿谷川がある。
旧稲佐国民学校
旧稲佐国民学校(現・長崎市立稲佐小学校)
 1945年(昭和20)8月9日、午前11時2分、長崎市の北部上空約500mで原子爆弾が炸裂し、猛烈な爆風と熱線、放射線が地上に襲いかかった。
 爆心地から南へ約2,000mの稲佐国民学校では、木造の教室、小使室、宿直室は倒壊、講堂は大破し、鉄筋コンクリート3階建ての校舎は窓ガラス、木枠、鉄製の窓枠を吹き飛ばし、同校の児童や職員も多数死亡した。
 1学期の初めには、36学級1,000人を越す児童数であったが、縁故疎開した者、被爆した者、負傷した者、他の地区へ転居した者などで、児童数は激減しており、9月になり学校が再開されると、登校した児童は約120人であった。
 また、稲佐国民学校より北部で、原子爆弾により大きな被害を受けた城山国民学校、淵国民学校、銭座国民学校は、校舎が使用不能となったため、同校の校舎を利用して授業が開始された。
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