
元禄11年(1698) )「末次の大火」(後興善町から出火した火災)は、隣接する22町に延焼し、樺島町や浦五島町の土蔵33棟に収納されていた唐船20隻分(銀3,377貫目:約67億円)の貨物を全て焼失した。そこで、これらの唐人荷物を火災から守るため、土蔵所持の町人によって元禄15年(1702)に2年間の歳月をかけて新地(人工島)が造成された。当時は碁盤島とも呼ばれていた。敷地は、東西は70間(約127m)、南北は50間(91m)、総坪数は約3,500坪のほぼ長方形で、12棟60戸の中国貿易の品を保管する荷蔵と荷役所、役人詰所が建てられ、新地は土塀でもって周囲が囲まれていた。
※ 新地蔵跡碑は新地中華街中央の十字路の位置にある。