2009年06月24日

宮地嶽八幡神社陶品製鳥居

宮地嶽八幡神社陶品製鳥居
(登録有形文化財・国登録・登録基準3)
宮地嶽八幡神社陶品製鳥居
 有田磁窯による大型細工でつくられた鳥居。親柱部分に残る銘によって製造人が岩尾久吉,角物細工人が金ヶ江長作,丸物細工人が峰熊一であることが判明する。有田に製作者が同一のものがひとつあるが,他に類例がない稀少的な存在である。
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2009年06月23日

宮地嶽八幡神社

宮地嶽八幡神社
 承応2年(1653)、修験者存性が京都男山八幡宮より分霊を勧請し、この地に大覚院を創立し奉祀したことにはじまる。宝永元年(1704) 大覚院が黄檗宗に属したことより唐船の人達にも宮地嶽八幡神社は尊崇され毎年多額の寄進が唐船よりよせられた。
 明治元年(1868)神仏混交廃止令により大覚院寺号を廃して八幡神社と改称し現代に至っている。
 相殿の宮地嶽神社は明治11年(1878)福岡県宗像郡宮地嶽神社の分霊が奉祠されたものである。
 なお、宮地嶽八幡神社の所在地である八幡町の町名は、延宝8年(1680)この地区の町名が新たに名付けられたとき宮地嶽八幡神社の祭神に因んで八幡町の町名が定められている。
境内社
稲荷社 石祠に寛政11年(1799)の銘がある。
天満社 八幡町の大学院境内にあった石祠を移したものと伝えている。
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2009年06月22日

浄土真宗巍々山光源寺

浄土真宗巍々山光源寺
浄土真宗巍々山光源寺
 江戸時代初め、筑後柳川(現在の福岡県瀬高町)にある光源寺僧・松吟(しょうぎん)は真宗の布教のためキリシタン全盛期の寛永初年(1625頃)来崎し、布教活動をはじめる。時の第13代長崎奉行馬場三郎左衛門利重より銀屋町(銀屋町自治会館前)に寺地を与えられ、寛永14年(1637)筑後と同名の光源寺を開山。しかし延宝4年(1676)付近の火災により類焼したので伊良林(現地)に移転した。
 飴屋の幽霊談話があり、延享2年(1745)の箱書のある産女の幽霊像が保存されています。
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2009年06月21日

河東山禅林寺

河東山禅林寺(ぜんりんじ)(臨済宗妙心寺派)
 河東山禅林寺は禅宗であり、臨済宗に属す。本山は京都花園妙心寺である。
河東山禅林寺
 キリシタン全盛期の寛永年間(1624〜1643)、久留米の徳雲寺(元和9年開山)の開基・回厳玄登の弟子にあたる禅僧・石峯祖芳が長崎入りし仏教の普及を始める。石峯は時の第13代長崎奉行馬場三郎左衛門利重から唐からの書物の検査を行う書物改役を命じられた。
 正保元年(1644)その書物改の功労をたたえ奉行は一寺の創建を許可。石峯は現在の寺地に禅林寺を建立した。この寺地は唐通事穎川官兵衛の別荘であったが、禅林寺創建の為に石峯に寄付した。
 禅林寺墓地には、蘭学者吉雄耕牛、水戸御殿医柴田方庵、長崎南画木下逸雲、天文地理学者島谷市左右衛門の墓がある。
本尊は如意輪観音菩薩
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2009年06月20日

深祟寺・阿弥陀如来像

深祟寺・阿弥陀如来像
 深祟寺にある阿弥陀仏は、元禄3年(1690)園山善爾によって寄進された伊勢町と八幡町を結ぶ阿弥陀橋の際にお祀りされていたもので、明治維新後、深祟寺でお祀りされるようになりました。
 現在、阿弥陀橋の側にある阿弥陀堂は近年建立されたものである。
 以前の阿弥陀橋は昭和57年7月の大水害で損傷、現在移築復元場所を検討中である。
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2009年06月19日

栗崎家の墓(東林山深崇寺墓地)

栗崎(くりさき)家の墓(東林山深崇寺墓地
 医家栗崎家墓地、同家は初代道喜正元以来、役医を勤めたが、特に3代道有正家から11代道巴まで牢屋や唐人屋敷外科を勤めた。同家の墓碑は5代道意までは「深崇寺墓地」に、6代道意以下は晧台寺墓地にある。特に4代道有正羽は元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩が江戸城内で吉良上野介義央を斬りつけた際の、上野介の傷を治療したことで知られるが、道有正羽は弟子の田仲道休を5代道意とした。以後、正羽系の栗崎は代々幕府の侍医となり、田仲系の栗崎は長崎奉行の用医を勤めた。
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2009年06月18日

東林山深崇寺

東林山深崇寺(浄土真宗本願寺派)
東林山深崇寺
 慶長初年(1596〜)、禅寺だった東禅寺はキリシタン宗徒の再三の妨害をうけ廃寺に。同じ慶長年間(1596〜1614)、長崎に入り布教活動をしていた肥前唐津出身の僧・浄慶(じょうけい)が東禅寺を譲り受け、元和元年(1615)現在のところに東林山・深崇寺(浄土真宗本願寺派)を創建。
 当時、この浄慶の働きを時の第5代長崎奉行長谷川権六藤正は賞賛したと伝えられている。
 鐘鼓楼は、珍しい木造和風の重層造り。
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2009年06月17日

三宝寺の奪衣婆・コンコン婆

三宝寺の奪衣婆(だつえば・俗にコンコン婆)
 三宝寺境内に閻魔堂があり、閻魔堂の閻魔さまの横には奪衣婆(コンコン婆)という鬼婆がお祀りされている。人が死ぬと7日目に三途の川に到着。ここには奪衣婆という鬼婆が死者の衣服をはぎ取り、衣領樹という木にはぎ取った衣服を木の枝にかけて枝のしなり具合(罪の重さ)で生前の悪行を判断。閻魔さまの裁判をうけ、その後の行き先(天国・地獄)が決まるという。
 三宝寺の奪衣婆(コンコン婆)は子供の歯痛や腹痛などに霊験ありと伝えられ、さらに咳や喘息で病む人は和紙に歳の数だけ「こんこん」と書いて祈願すると痛みが和らぐとか、飴を奉納すると歯痛が和らぐともいわれ祈願する人が多いという。
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2009年06月16日

万年山比経院三寶寺

万年山比経院三寶寺(浄土宗)
万年山比経院三寶寺
 長州萩の浄土僧・転誉(てんよ)は、第3代天台座主・慈覚大師(じかくだいし)作と伝えられる「矢負の弥陀」という阿弥陀如来像を背負って来崎、阿弥陀橋付近に住み浄土宗の布教、教化に努める。第5代長崎奉行長谷川権六の助力で堂宇を建立。のち、元和9年(1623)、万年山比経院・三宝寺(浄土宗)となり、矢負の阿弥陀如来像を本尊として安置。
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2009年06月15日

雲山理薬院浄安寺の大バラモン

雲山理薬院浄安寺の大バラモン(浄土宗)
浄安寺の大バラモン 無類のハタ(凧)好きだった浄安寺13代住職・住誉津邦(じゅうよしんぽう)が作った長さ4.5メートル余り、幅2.3メートルの大バラモン(婆羅門・長崎のハタ(凧)の一種)は「長崎古今集覧名勝図絵」にも描かれている。複製が本堂の天井に飾られてある。
 この大バラモンは、風頭などの山で7、8人の手によって揚げられていたのだろう。
posted by 太鼓山 at 09:27| 長崎 🌁 | TrackBack(0) | 寺町通り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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