2008年12月07日

高木家墓地

高木家墓地
市指定史跡 昭和48年11月5日指定 本蓮寺後山墓地
高木家墓地
 高木家は、初期の頭人の一人で、その後町年寄に任ぜられ元文4年(1739)9代忠興の時、長崎代官3000石をたまわり、代々勝山町に住み代官をつとめた。
 この墓地は寛文11年(1671)没の4代宗能以後に作られたものであろう。墓碑は、4代宗能から8代忠栄まで、代官墓碑は9代忠興と10代忠興で寛政10年(1793)までみられる。これは享保6年(1721)御用物方であった8代忠栄が本蓮寺二天門横に位牌所達心院を創設し、11代忠任以後の墓碑はその場所に建てられたからであろう。ただし達心院墓碑群は明治以後別地に移され今はない。高木家墓地にある墓碑は五輪形式のもので、江戸時代における長崎町年寄と代官の墓碑としては、長崎では稀である。
参考資料:長崎市の文化財

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2008年12月05日

阿蘭陀通詞中山家墓地

阿蘭陀通詞中山家墓地
市指定史跡 昭和52年3月25日指定 大音寺後山墓地
阿蘭陀通詞中山家墓地
 阿蘭陀通詞中山家の基地で、中山氏一族の墓碑25基と、シーボルトの高弟であった美馬順三(1795〜1825)の墓碑1基がある。中山家は、始祖作左衛門が寛文3年(1663)に稽古通詞(のちに小通詞)に任ぜられて以来、8代にわたって阿蘭陀通詞を勤めたか、2代喜左衛門政純・3代喜左衛門正紀・5代作三郎武成・6代作三郎武徳は大通詞に、8代六左衛門武和は通弁役頭取に進んでいる。また、6代作三郎武徳は御用和蘭字書翻訳認掛として、ヘンドリック・ドゥフの指導で行われた蘭日対訳辞典「ドゥフ・ハルマ」の編纂に従事し、これを完成させた。
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2008年12月02日

荒木宗太郎墓地

荒木宗太郎墓地
市指定史跡 昭和50年12月5日指定 大音寺後山墓地

荒木宗太郎墓地
 荒木宗太郎(?-1636)は名を一清といい、のちに通称を惣右衛門と改めた。肥後熊本の武士であったが、天正16年(1588)長崎に移住し現在の飽の浦公園の地に壮大な屋敷を構え、朱印船貿易商として活躍した。荒木船の船旗は連合オランダ東印度会社のVOCのマークを逆にした図柄であった。
 宗太郎の妻は、王加久戸女(わかくとめ)と称し、交趾国(こうち・ベトナム)の王族阮(ぐえん)氏の娘であった。長崎の人達は、彼女のことをアニオさんと呼んだか、その豪華な輿入れの有様は、現在でも「くんち」の奉納踊の随所に取入れられている。
 なお、荒木家は3代伊太郎好信から13代惣八郎春章まで、西築町の乙名を勤めている。

参考資料:長崎市の文化財誌
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2008年11月29日

長崎で亡くなった長崎奉行の墓碑15

百三代長崎奉行・大屋遠江守明啓墓碑(おおやとおとうみのかみみつよし)
生年不詳〜嘉永3年(?〜1850)
大屋遠江守明啓墓碑 大屋氏は清和源氏満快流で尾張を本国とした。明啓は、幼名を右京、通称を図書、諱が明啓、従五位下遠江守を称した。
 明啓は、天保12年(1841)火付盗賊改役、翌年佐渡奉行、弘化2年(1845)小普請奉行となった。嘉永元年(1848)に長崎奉行となり、在任中(1848〜1850)の嘉永2年(1849)には地役人に対して学問に励むべきことを命じた。
 嘉永3年(1850)5月25日、長崎で死去。墓所は日蓮宗聖林山本蓮寺、菩提寺は本妙寺(東京都豊島区巣鴨)
(墓碑正面)玄種院殿智徳明啓日進大居士
(右)従五位下前遠江守源朝臣大屋明啓
(左)嘉永三年庚戌五月廿五日

※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。

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2008年11月28日

長崎で亡くなった長崎奉行の墓碑14

百二代長崎奉行・稲葉出羽守正申墓碑(いなばでわのかみまさのぶ)
寛政6年〜嘉永元年(1794〜1848)
稲葉出羽守正申墓碑 稲葉氏は河野主流(越智氏)で、伊予国越智郡拜志村に居住。拜志村をとり、のち「林」に改め、佐渡守正成のとき「稲葉」の姓に改称。
 正申は、飯室太郎左衛門昌親の二男にあたるが、小普請組の稲葉来応正方の養子になった。通称を清次郎、諱が正申、従五位下出羽守を称した。
 弘化2年(1845)目付になると同時に、幕府の対外問題処理のために設けられた海防掛を兼職した。嘉永元年(1848)5月26日長崎奉行となったが、在任中の嘉永元年(1848)10月3日長崎で死去。墓碑は正覚山大音寺、行年54歳。菩提寺は霊光寺(東京都江東区深川)
(墓碑正面)敬徳院殿従五位下前出羽守越智真譽正由大居士
(右)嘉永元年戊申
(左)十月三日卒

※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。

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2008年11月27日

長崎で亡くなった長崎奉行の墓碑13

八十二代長崎奉行・松平図書頭康平墓碑(まつだいらづしょのかみやすひら)
宝暦11年〜文化5年(1761〜1808)
松平図書頭康平墓碑
 松平氏は松井家が支流。康平は高家旗本前田隠岐守清長の三男であったが、安永6年(1777年)、幕府小普請組戸川山城守支配松平舎人康彊(松平・松井家分家)の婿養子となり、松平家の家督を相続する。
 初名は康英、幼名を栄之助、通称を伊織、諱が康平、従五位下図書頭を称した。
 天明8年(1788)中奥番士、寛政6年(1794)御徒頭、寛政8年(1796)目付・船手頭兼任となる。文化4年(1807)長崎奉行に就任する。
 在任中(1807〜1808)の文化5年(1808)2月、蘭通詞6名にオランダ商館長・ドーフから指導を受けフランス語を習うことを命じた。同年6月に長崎でのロシア船処分法、8月初めにロシア船渡来の際の港湾警備法を定める。同年8月15日フェートン号事件。
 文化5年(1808)8月17日、フェートン号事件の責任をとり死去。26日喪を発し28日葬る。墓所は正覚山大音寺。菩提寺は天徳寺(東京都港区虎ノ門)。
 長崎総町の発議により、文化6年(1809)、康平社(図書明神)として諏訪神社境内に祀られる。
(墓碑正面)現光院殿従五位下図書頭俊譽淨雄大居士
(右)文化五戊辰年
(左)八月二十六日

※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。
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2008年11月26日

長崎で亡くなった長崎奉行の墓碑12

八十代長崎奉行・成瀬因幡守正定墓碑(なるせいなばのかみまささだ)
宝暦2年〜文化3年(1752〜1806)
成瀬因幡守正定墓碑 成瀬氏は二条関伯良基が三河国加茂郡足助庄に寓居し、二男の基久は足助庄成瀬郷に住んでいたことから「成瀬」の姓を称した。正定は天明4年(1784)に小普請組支配であった成瀬吉右衛門正常の遺跡を継ぐ。幼名を正孝・小弥太・藤蔵、通称を吉右衛門、諱が正定、従五位下因幡守を称した。
 寛政4年(1792)に目付、同8年に堺奉行、同年9月に大坂町奉行となった。享和元年(1801)長崎奉行になる。
 在任中(1801〜1806)の享和3年(1803)にはアメリカ船が「長崎丸」の船名板をつけ長崎に来航、通商を求めるが幕府は拒絶し退去させる。一方外交面では唐番外船2艘に貿易を許可した。
 文化3年(1806)4月7日長崎にて死去14日喪を発し18日葬る。墓所は日蓮宗聖林山・本連寺。菩提寺は大行院(東京都豊島区南池袋)。
(墓碑正面)一義院殿天朗道哲日仁大居士

※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。

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2008年11月25日

長崎で亡くなった長崎奉行の墓碑11

七十七代長崎奉行・松平石見守貴強墓碑(まつだいらいわみのかみたかます)
寛保2年〜寛政11年(1742〜1799)
松平石見守貴強墓碑 松平氏は祖の親氏が三河国松平郷に住み、「松平」の姓を称したが、後に「竹谷(たけのや)松平」姓を称した。貴強は、松平大進親賢の二男であったが、小姓番の松平伊織親房の養子に入り、明和8年(1771)に家督を継いだ。幼名を亀五郎、通称を次郎兵衛、諱が貴強、従五位下石見守を称した。
 天明7年(1787)大坂町奉行、寛政9年(1797)に長崎奉行に転じた。翌年勘定奉行兼任となり、在任中(1797〜1799)の寛政10年(1798)8月、天草牛深湊に見張番所を設置した。
寛政11年11月25日長崎で死去。行年58歳。墓所は海雲山皓台寺。
(墓碑正面)恭徳院殿義嶽靜貞大居士

現在は永井筑前守直廉墓碑と並んで松平石見守貴強墓碑はある。

※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。

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2008年11月23日

長崎で亡くなった長崎奉行の墓碑10

七十三代長崎奉行・永井筑前守直廉墓碑(ながいちくぜんのかみなおかど)
元文4年〜寛政4年(1739〜1792)
永井筑前守直廉墓碑 永井氏は鎌倉幕府の政所の初代別当であった大江広元の二男長井左衛門尉時広入道を支流とし、天正8年(1580)徳川家康に従って「永井」の姓に改める。直廉は、天明2年(1782)小普請奉行・御旗奉行であった永井筑前守直令の遺跡を継ぐ。幼名を主計、弾正、通称を伊織、諱が直廉、従五位下筑前守を称した。
 天明8年に目付、寛政元年(1789)に長崎奉行となった。
 在任中(1789〜1792)の寛政3年(1791)9月には長崎村馬場郷(現・桜馬場)に炮術稽古場を設け、地役人に砲術を習わせる。市中貧困者へ仕事を与える産業方を設置し資金を貸与し仕事に就かせる、また長崎会所用意銀を蓄積した。直廉は人望があり市民、在留唐人は奉行の病気の回復を願って神社仏閣に祈願しという。墓碑には浅井誠中撰、程赤城書の墓誌が刻まれてある。
 寛政4年(1792)2月6日長崎で死去。墓所は海雲山皓台寺。行年54歳
(墓碑正面)朝梵大夫□崎□大江公之墓
(左右両面及び背面に墓誌が刻まれてある)

※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。

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2008年11月22日

長崎で亡くなった長崎奉行の墓碑9

六十八代長崎奉行・戸田出雲守氏孟墓碑(とだいずものかみうじたけ)
元文3年〜天明5年(1738〜1785)
戸田出雲守氏孟墓碑 戸田氏は三条家支流で、三河国戸田郷に住み、「戸田」の姓を称した。氏孟は新庄源六郎直良の二男であったが、小姓組番士の戸田半弥氏喜の養子となり、明和3年1766に家督を継いだ。
 幼名を吉五郎、通称を主膳、諱が氏孟、従五位下出雲守を称した。
 天明元年(1781)佐渡奉行、同4年(1784)に長崎奉行となった。在任中(1784〜1785)には長崎会所に調役を置き、町年寄の久松半右衛門、薬師寺久左衛門を調役として任じた。
 天明5年(1785)10月4日長崎で死去、墓所は正覚山大音寺。行年48歳。菩提寺は蓮光寺(東京都文京区)。
(墓碑正面)高岳院殿顕譽氏孟宗俊大居士
(右)従五位下戸田前出雲守藤原氏孟墓
(左)天明五乙巳歳十月上四日

※ 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。

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