2010年05月15日

梅香崎(佐古)招魂社、梅香崎(佐古)墳墓地跡

梅香崎(佐古)招魂社、梅香崎(佐古)墳墓地跡(長崎市西小島2丁目6)
 明治7年(1874)の「台湾出兵」では、長崎税関内に蕃地事務局が新設され、事務総督大隈重信以下官員、台湾征伐総督西郷従道(西郷隆盛の弟)、参議陸軍中将谷千城、海軍中将赤松則良以下将兵4500余人は、長崎から台湾に向かった。
 しかし現地の熱帯環境で病死者(マラリア)が多数発生、300余人が死亡した。罹病者は続々と内地に送り返され長崎医学校(旧大徳寺:旧大徳園)に収容し、翌8年4月罹病者が全員退院するまでを治療を続けた。しかし死者が多数となり病院の横に招魂場(梅香崎墳墓地)を設け552名の霊を埋葬。明治8年(1875)梅香崎招魂社において政府主催による招魂祭が挙行された。
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2009年12月01日

坂本龍馬と長崎関連の場所

坂本龍馬と長崎関連の場所
■皓台寺と小曾根家墓所
 皓台寺は、慶長13年(1608)僧亀翁良鶴が岩原郷(現玉園町)に開山し、当初は笠頭山洪泰寺と称した。元和元年(1615)佐賀玉林寺一庭融頓が住持となり、寛永3年(1626)現在地に移転。同19年(1642)明正天皇から海雲山普照皓台禅寺の号を賜わったが、さらに正保5年(1648)には朱印地となり、以後長崎三大寺院の一つとして高い格式であった。
 後山には、長崎奉行永井筑前守直廉墓、同松平石見守貴強墓、唐通事林・官梅家墓地、阿蘭陀通詞加福家墓地、町年寄の高島家墓地、後藤家墓地のほか、上野彦馬、シーボルトの娘楠本イネ等、著名人の墓地が多くある。
 小曾根家の墓地内には、龍馬や亀山社中の活動をサポートした小曾根英四郎や 亀山社中同志であった近藤長次郎の墓がある。

※ 皓台寺では、龍馬が京都・大江屋で何者かに暗殺された1ケ月後、海援隊を中心に縁の人々によって龍馬の慰霊祭が行われた。
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2008年12月26日

楠本家の墓

楠本家の墓
楠本家の墓
楠本イネ
(文政10年5月6日(1827年5月31日)〜 明治36年(1903年)8月26日)
 日本初の女性の西洋医学の産科医。出島のオランダ商館医(ドイツ医学者)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘である。「楠本」は母・楠本瀧(お滝)の姓。
 楠本イネは楠本家の墓地に、シーボルトが愛した母の瀧(お滝)、恩師二宮敬作と同じ場所に静かに眠っている。
戒名:実相院法林恵空大姉
墓所:海雲山 皓台寺後山
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2008年12月25日

大浦 慶

日本茶輸出貿易の先駆者
 大浦 慶 文政11年6月19日(1828年7月)−明治17年4月13日(1884年)
大浦慶墓碑.jpg 大浦家は17世紀以来200年にわたり長崎の油屋町で油商を営む旧家。
幕末から明治初めにかけて日本茶の輸出を試みて成功、貿易商として活躍。
 1853年(嘉永6)、出島のオランダ商館員テキストルに嬉野茶の見本品を海外に送ることを依頼した時、お慶は25歳であった。お慶の託したお茶は英・米・アラビアの3国へ送られ、これが功を奏し、3年後の1856年(安政3)、英国人の貿易商人ウィリアム・オルトがお慶のお茶の見本を携えて来航する。当初、オルトから一万斤(6トン)もの発注を受け、お慶は嬉野産の茶だけでは応じきれず、九州一円の茶を集め、やっと1万斤をアメリカへ向け輸出させた。その後もオルトを通じ製茶の本格的な海外輸出取引は続けられ、お慶は莫大な富を築くことになる。
墓所:長崎市高平町の大浦家墓地

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2008年12月24日

唐通事・馮六

唐通事・馮六墓所
唐通事・馮六の墓所
 唐通事は、中国語の通訳であるが、最初、1604年(慶長9)にこの職に任命されたのが、長崎住宅唐人馮六(ほうろく・ひょうろく)(馮六官)であった。住宅唐人とは、わが国に居住を許可された中国人のことであるが、これら住宅唐人は、鎖国体制で新規の渡来が一部の例外を除いて禁止されると減少、さらには17世紀の末期にはほとんど死亡してしまい、日本人を母とする2世達は、急速に日本の社会に同化していった。
 墓所:巍々山 光源寺
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2008年12月22日

東海家の墓

東海家の墓2
東海家の墓
東海家の墓・獅子頭 墓の規模は広大(約16m×約36m)で、善美を尽くし、全体の平面は五輪塔の形を示すという。周壁は石組で、床面は石を敷き、石柱・扶壁・石欄その他は文字・植物・動物などを彫刻。獅子頭の眼には金箔を張って、これが陽光に輝くのが港から望見されたという。最奥に徐敬雲夫妻の墓碑があり,5段に分かれて手前へ低くなっており,東海家子孫の墓碑が建ちならんでいる。

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2008年12月21日

東海家の墓

東海家の墓
東海家の墓
県指定有形文化財 昭和31年4月6日指定 春徳寺後山墓地
 唐通事東海家の本家と分家の墓地で、鉅鹿家魏之炎(おうがけ ぎしえん)兄弟の墓(県指定史跡・西山町)と同様、長崎における中国式墳墓の代表的なものである。東海家は中国人徐敬雲を始祖とし、元和3年(1617)に長崎に来崎。その子二代東海徳左衛門から十代にわたって唐通事を勤め、二代徳左衛門は目附役、七代安兵衛は大通事助になっている。この墓は、二代徳左衛門が徐敬雲夫妻を祀るために造立したもので、その完成には数年を要し、延宝5年(1677)頃完成したといわれている。墓は5段からなり、最上段に敬雲夫妻の石祠があり、墓碑は3段目に14基、4段目に11基、5段目に3基がある。
三代源助・四代徳左衛門・八代勝太郎・九代妙之助の墓石はない。
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2008年12月20日

二宮又兵衛綱宏・墓碑

二宮又兵衛綱宏・墓碑
二宮又兵衛綱宏・墓碑
二宮又兵衛綱宏・墓碑 墓の傍らに墓碑が立っている。墓碑には、大津事件で司法権の独立を確立した裁判官児嶋惟謙(こじま これかた 1837年3月7日−1908年7月1日)の詩が刻まれている。
 私は君と友誼を結んでいたが、人々は君の論ずるところを聞いて国士となし、得難い人材と思っていた。近頃長崎に赴任し、君の墓に詣でた。哀しいかな、つとに大志を抱きながら小人の刃にかかって倒れた君。その才能を讃えて、この平和の時代に同志と共に墓碑を建立し銘を刻む。確乎たる志を持ち、勉めてその業をなし、奥儀を究めていたのにどうして命を落としたのか。
 もはや君は幽界にあり、もう会うことはできない。私は深い悲しみをもって君の災いを明らかにする。
明治15年11月    従五位  児嶋惟謙


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2008年12月19日

二宮又兵衛墓地

二宮又兵衛墓地
二宮又兵衛墓地 亀山社隊士二宮又兵衛墓地。光源寺後山墓地
 二宮又兵衛は宇和島藩士。亀山焼は慶応元年(1865)廃窯となり、細工小屋等は空家となった。亀山社中は、慶応2年(1866)に坂本龍馬が結成したもので、この亀山の地を本拠地としたので、亀山社中とか亀山隊と呼ばれた。同3年(1867)龍馬は長崎の清風亭で後藤象二郎と会談、海援隊を結成した。龍馬の死後、社中は宇和島藩士二宮又兵衛等によって運営されたが、同3年8月に又兵衛が暗殺され、社中は自然と解散した。

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2008年12月08日

阿蘭陀通詞横山家墓地

阿蘭陀通詞横山家墓地
光源寺後山墓地
阿蘭陀通詞横山家墓地
 横山家の始祖又兵衛は平戸の人で、寛永17年(1640)阿蘭陀通詞になったが、以来、11代又之丞まで阿蘭陀通詞を勤めた。墓地には又兵衛(寛文6年没)、又次右衛門(正徳4年没)、與惣吉元政(享保12年没)、次右衛門武信(文政11年没)など22基の墓碑があったが、現在では8基に整理されている。なお、元文4年(1739)新規口稽古になった横山又治右衛門を始祖とする横山家分家の墓碑はこの墓地にはない。
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