2008年06月30日

ペーロン(競渡船)喧嘩

本五嶋町と深堀村のペーロン(競渡船)喧嘩
 長崎港でペーロン(競渡船)競漕が行われたのは、明暦元年(1655)のことで長崎港に碇泊中の唐船が暴風雨に襲われて難破し、多くの溺死者をだした。在留の唐人たちは、海神の怒りを鎮めようと端舟(はしけ)を借り集めて、長崎港で競漕したことが始まりと言われている。
 当時は、旧暦5月の端午の節句に水神祭を兼ねペーロン(競渡船)競漕が行われていたが、寛政12年(1800)5月5日、競漕に熱中する余り本五嶋町舟と深堀村舟との間で喧嘩が始まり死傷者まで出る騒ぎとなった。この翌年の享和元年(1801)4月長崎奉行はペーロン禁止令を出すが、その後もペーロン(競渡船)競漕は行われ、その度に各種の喧嘩沙汰を引き起し、長崎奉行は、度々禁止令を出している。
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2008年06月28日

善長谷教会

善長谷教会:長崎市大籠町善長谷
カトリック部落善長
 文化年間(1804年)、隠れキリシタンであった甚介の子、佐八が六家族を旅芸人の風を装い西彼杵郡三重郷樫山から脇岬の木場、ゆりさき(鯨浜付近・蚊焼)を経て、この地を信仰の隠れ家としたことに由来する。
 居住の条件として、領主の深堀鍋島家から、八幡神社の毎月の祭礼及びお水方として藩主用の水汲み役を果たす事、菩提寺の檀家に所属することが義務付けられた。
 表向きは菩提寺の檀徒であったが、彼らにとってこれらの勤めを果たすことは表向きのことであって、信仰の形態は先祖から受け継いでいる隠れキリシタンの信仰を堅持していくことにあった。
 「善長谷」という地名の由来は、菩提寺六代・賢外普門大和尚が厳しい座禅の修行によって悟りの境地に至ったことで知られる場所で、「禅定谷」と呼ばれるようになり、それが、訛って「善長谷」となったと言われている。また「善長谷部落名起源考」には、異教徒のことをポルトガル語では「ゼンチョ(キリシタン用語)」とあることから「善長あるいは善丁」の語源が生まれたのではないかと考えられ、又その仏教徒の住む谷をゼンチョの谷と呼んだ事が長い間に変遷して、自分たちの住む地名になったのではないかとも言われている。
 明治維新以降、信仰の自由が公認されると、それまで密かに信仰を守っていた当地の隠れキリシタンたちは、宣教師のカトリック信仰への呼びかけに従い、大部分が集団でカトリックに改宗したが、改宗を拒んだ一部のキリシタンは西彼杵・三和村蚊焼郷岳路に移住し、今も「離れ切支丹」として密教的信仰を持ち続けている。
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2008年06月27日

深堀領主系図

深堀領主系図
深堀領主系図
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2008年06月26日

佐賀藩深堀鍋島家屋敷跡

佐賀藩深堀鍋島家屋敷跡 所在地:五島町5(旧 浦五島町)
 正保4年(1647)6月24日、ポルトガルの修好使節船2隻が長崎港に来航した際、幕府は2隻を拿捕するため西日本の諸藩の軍勢48,000人の動員を命じ、長崎港を警備した。以後、各藩は長崎警備の目的で長崎に蔵屋敷を設け、聞役(長崎と諸藩との連絡に従事する家臣)その他を派遣、長崎奉行所との連絡業務体制を強化した。蔵屋敷を設けた諸藩は、九州の諸藩はもとより、萩藩にも及び14藩が正式な蔵屋敷であった。
 佐賀藩では鹿島藩(佐賀藩支藩)と同藩家老の諫早家、武雄家、多久家、深堀鍋島家の屋敷を設け、異変に備えた。
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2008年06月25日

十人義士の墓

深堀義士・十人義士の墓 菩提寺境内
 昭和17年、三十世・宗典萬乗大和尚が建立。
長崎喧嘩騒動」での切腹者12名、五島などへの流人9名、合計21基の墓碑。通常、21基あるが之を「十人義士の墓」と言う。
 「長崎喧嘩騒動」の発端となった深堀三右衛門と志波原武右衛門の墓を中心に、向かって左に第一次応援の10人(切腹)と、右に第二次応援の9人(五島に遠島)が並んでいる。
 尚、五島へ遠島になった9人のうち7人は、五島大和守より現地妻を娶らされ、子をもうけ、宝永6年(1709) 己丑九月ご赦免。許されるまで実に9年の歳月であった。(木下與惣衛門、多々良源太夫の2名は妻無し)
十人義士の墓
正面右より(名は資料により異なる点があり墓碑の俗名を記載)
 城島治部右衛門春朝(月秋道光) 五島宇久島へ遠島
 樋口市郎衛門(素心良願)  五島遠島
 田代萬助(義天一方)  五島玉之浦の内・大宝へ遠島
 田代次八(忠山元良)  五島玉之浦の内・小川幾山へ遠島
 向井弥兵衛(天叟浄澤)  五島遠島
 志波原羽右衛門(忠嶽道節)  五島遠島
 多々良久左衛門義陣(春受玅山)  五島遠島
 木下與惣衛門(秋月正心)  五島遠島
 多々良源太夫義重(無門鉄闕)  五島遠島
 深堀三右衛門賢晴(寒林雪国) 70歳 高木邸切腹
 志波原武右衛門賢知(友利弾心) 60歳 浜町大橋(現・鉄橋)切腹
 志波原清右衛門賢宣(古屋廣圓) 51歳 切腹 武右衛門の弟
 深堀正左衛門賢倫(諦嶽相観) 23歳 切腹
 深堀嘉右衛門賢時(一葉化船) 17歳 切腹 三右衛門の子
 荒木権内正矩(格霊超普) 40歳 切腹
 喜多佐衛門能全(忠岳永孝) 30歳 切腹 三右衛門の甥
 高濱嘉左衛門行也(舜岩窓映) 50歳 切腹
 宇都宮五左衛門善種(縁貫了因) 39歳 切腹
 高濱助右衛門時幸(東齢仙西) 43歳 切腹
 宇都宮只之丞正則(行雲栄順) 35歳 切腹
 平與左衛門貞通(來岳道不) 35歳 切腹
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2008年06月24日

十人深堀義士碑

十人深堀義士碑(供養塔) 菩提寺境内
十人深堀義士碑(供養塔) 菩提寺境内には、深堀村長 志波原三郎撰文の碑(昭和9年3月21日)がある。碑には深堀義士長崎喧嘩の一部始終が刻まれてある。又、中央には切腹者10人の供養塔、左には法華経供養塔などがある。

深堀義士長崎喧嘩騒動
 元禄13年(1700)12月19日、深堀家の家臣・深堀三右衛門(69歳)、柴原武右衛門(59歳)の二人は、町年寄高木彦右衛門の仲間・惣内と大音寺坂(万才町から賑町に下る坂道)で喧嘩となった。喧嘩の原因は雪解けのぬかるみで三右衛門の杖が滑り、そのはねた泥が惣内の合羽にかかったというものであった。
 高木彦右衛門は、当時、唐蘭商売元締めの役職で長崎貿易を一手に牛耳り“飛ぶ鳥をも落とす勢い”とまで言われた。また、この日は高木家では無礼講の宴会があり、惣内は相当に酔っていたといわれる。
 その場はなんとか納まったものの、その日の夕刻、惣内は朋輩等と浦五島町(現五島町)の深堀屋敷に押しかけ、三右衛門と武右衛門の大小を奪ってしまった。
 事ここに至って三右衛門と武右衛門は、武士の面目をかけて討入りを決意、19人もの応援を得て、20日夜明けとともに、西浜町(現浜町)の高木屋敷に討入り、彦右衛門をはじめ中間多数を討ち果たした。
討入り後、三右衛門は高木屋敷で、武右衛門は大橋(現在の鉄橋)でそれぞれ切腹したが、よく14年3月21日第一次応援の10人は切腹、9人は五島に遠島(宝永6年(1709)赦免となる)とそれぞれ処せられた。
 この討入りは、大石内蔵助も家来を遣わすなど吉良邸討入りの参考にしたという。
十人義士の墓碑説明板より


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2008年06月23日

深堀鍋島家墓地

深堀鍋島家墓地 市指定史跡 昭和49年3月8日指定 
所在地:菩提寺後山墓地
深堀鍋島家墓地正面
 江戸時代に佐賀藩の家老職を勤めた深堀鍋島家(6000石)歴代の墓地である。深堀家の始祖は、三浦仲光といい、上総国深堀荘(現・千葉県夷隅郡大原)の地頭であったが、その子能仲(よしなか)の時の建長7年(1255)肥前国戸八(町)浦(現・長崎市戸町とその周辺)の地頭として下向して以後、長崎半島の全域を支配するようになった。しかし18代純賢(すみまさ)の時に、佐賀藩の支配に属し、深堀姓を鍋島姓に改めた。この墓地には、19代(深堀鍋島家2代)茂賢(しげまさ)以後の領主とその夫人や一族など、41墓があるが、長崎市における唯一の旧藩主クラスの墓地として貴重である。
 墓地は奥行き17.5m、間口14.5m、外壁は石廓、正面入口には半円の石造りの門があります。正面中央は29代茂精以後の合葬碑、正面奥に18代純賢の供養塔、左右に19代茂賢から28代茂勲までの当主と正室、後室などの墓碑があり、墓地入口の左右には家臣や殉死者の墓碑が並んでいる。
深堀鍋島家墓地向って左深堀鍋島家墓地向って右
墓地入口家臣や殉死者の墓碑墓地入口家臣や殉死者の墓碑
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2008年06月22日

三官の墓

三官の墓 所在地:長崎市深堀町5丁目465
 林氏五官呉公の兄三官(林権三郎)の墓で、法名を慧林芳賀。元和5年己未孟冬(つちのとひつじもうとう)となっている。林五官が建てたとされる。

※ 元和5年己未孟冬(1619年陰暦10月)
 三官、五官は中国での官職名ではなく、日本で言う三郎、五郎の呼称と思われる。
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2008年06月21日

五官の墓

五官の墓 市指定史跡 指定年月日:昭和49年3月8日
所在地:長崎市深堀町5丁目401
五官の墓1五官の墓2
 林氏五官呉公の墓。五官は法名を續室浄連居士いい、慶長11年(1606)から元和2年(1616)にかけて、カンボジアやベトナムに渡航した、朱印船貿易家唐人五官と推定されている。寛永14年(1637)6月19日没の墓である。
 「菩提寺世代伝」の三代一翁芳純大和尚の伝によると、芳純大和尚【慶長2(1597)〜正保(1647)在住】は長崎に渡来した唐人を教化し、その寄進を得て諸堂を造立したとある。
 明人の五官呉公は明の喜宗皇帝(1621〜27)が自ら織ったと言う十六羅漢刺繍の九条の袈裟(けさ)を喜捨し、現在の墓地付近の土地を買い、没後祠堂料として、この土地を寄付した。
 当時この付近は唐人町と呼ばれ多数の唐人が帰依していたという。五官もその一人であった。この墓は一般に「五官の墓」と呼ばれ、墓は奥行き4.4m、間口3.23mで、前方部は石畳、後円部は一段高くなり、中国の華南系(かなん)の墓地の様式を残している。石碑表面には墓碑銘があったというが、風化が進んでいてはっきりとしない。

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2008年06月20日

馬場崎経塚

馬場崎経塚(ばばさききょうづか)
馬場崎経塚
 昔はこの付近を馬場崎と呼び、言い伝えによればこの付近に船を繋いでいたとのことで、お屋敷からお東付近までは州であったという。
 経塚とは、経典が土中に埋納された遺跡である。経典を扁平な小石(経2、3cm位)一石に一字を漆で書写し、それを多数土中に埋納する一字一石経塚や複数文字を書写した多字一石経が埋納された経塚ある。
 馬場崎経塚は、江戸時代に造られた一石一字経塚である。平成9年川内自治会の公民館建設に伴い、馬場崎経塚の発掘調査を実施した結果、2基の経石埋納遺構と約20万6千点におよぶ経石が出土している。
 1基の経塚は、寛文2年(1662)の造営で、鍋島志摩守茂春の出資によって行われた菩提寺の堂宇建設に伴うものであった。2基目の経塚は、経碑に延亨2年(1745)造営の刻銘がある。
 ともに土坑に直接経石が埋納してあり、内部には地元の石を使用し法華経を写経したと推定される経石が隙間なく埋められてあったという。
posted by 太鼓山 at 08:22| 長崎 ☔ | TrackBack(0) | 深堀城下町探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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