2008年03月21日

眼鏡橋と平戸好夢

眼鏡橋を重修した平戸好夢とは?
 平戸好夢が、眼鏡橋を重修したとする資料が多い中、出島を構築した25町人の一人で、工事を指揮監督した、平戸の貿易商・平戸道喜が1648年(慶安元)に眼鏡橋を重修したとする説がある。好夢と道喜との共通点を今回知ることができなかった。好夢とは平戸道喜の雅号なのか?それとも別人なのか? また、眼鏡橋の重修が修復か再架も不明である。
 ここに出てくる平戸道喜は、長崎を代表する豪商・小曾根家の祖で、博多・平戸と移り、その後、長崎本博多町(現・万才町)に移り住み、古物商と外国貿易を生業とした。道喜は出島の構築、眼鏡橋の重修? それに、瑞光山永昌寺(玉園町)は道喜夫妻を開基とする(もと、永昌寺は道喜の別荘があり、道喜の妻よりこの地を寄進されたことから)。この道喜の代に小曽根姓に変った。
 小曽根家は六左衛門にはじまり、栄(号・乾堂)が継ぎ、現在も跡が継がれている名家。六左衛門の子、栄(号・乾堂)は、聡明で書画に長じ、篆刻(てんこく)に巧みだったことで知られる人物。特に隷書(れいしょ)が天下一品と称されていた。
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2008年03月20日

長崎・中島川の石橋群3

眼鏡橋(第10橋) 国指定重要文化財 1960年(昭和35)指定
眼鏡橋(第10橋)
 中島川の第10橋。眼鏡橋の名称は、川面に映った影が双円を描き、眼鏡のように見えることから、その名の由来といわれている。昔より「錦帯橋(山口県岩国)」「日本橋(東京)」とともに日本三名橋の一つとして名高い。
 眼鏡橋は、1634年(寛永11)、興福寺二代住持、唐僧・黙子如定(もくす にょじょう:江西省出身)の技術指導で架設されたといわれている。日本最初のアーチ式石橋であり、その石橋技術は全国の規範となった。
 1647年(正保4)の大洪水で崩流、翌1648年(慶安元)に平戸好夢(ひらど こうむ)によって修復されたと伝えられている。以後、度重なる大洪水にも崩壊をまぬがれたが、1982年(昭和57)長崎大水害で半壊し、翌1983年(昭和58)10月修復され現在に至っている。日常生活橋として今も活用されている。


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2008年03月19日

長崎・中島川の石橋群2

中島川の石橋群

 眼鏡橋が架かる中島川の石橋群は古い長崎の面影を残している一つです。
 1634年(寛永11)架設の眼鏡橋以後、17世紀末までに、木橋、木廊橋(屋根付き橋)が次々と石橋に架け替えられた。これらの石橋群は長崎町人たちの生活道であり、寺町の仏寺に行く参道としても重要な役割を果たしてきました。中島川の上流から下流まで石橋群は18橋ほどあるが5キロほどの短い川に架けられた数としては他に例を見ない。 過剰気味のこれらの橋は、僧侶、通詞(事)、商人などの個人の財力で造られている。それはとりもなおさず長崎が鎖国時代唯一の外国貿易港であり天領であった豊を物語っている。
 橋銘は今のような名前はなく、「長崎図誌」の著者釈元享が、阿弥陀橋を第一橋として上流から順に「第二橋」「第三橋」と番号で呼んだ。現在の橋銘は明治15年頃に長崎の儒学者(漢学)西道仙がつけたものが大部分と言われる。
 これらの由緒ある橋も昭和57年7月の長崎大水害で6橋が流失。流失以前は、昭和35年に眼鏡橋が国指定重要文化財となり、昭和46年には阿弥陀橋、高麗橋、桃渓橋、大井手橋、編笠橋、古町橋、一覧橋、すすき原橋、東新橋、袋橋の10橋が市有形文化財に指定されていたが、長崎大水害により、昭和61年全壊した6つの石橋を文化財から解除し、現在は昭和58年10月修復された眼鏡橋をはじめ、阿弥陀橋(移築場所検討中)、高麗橋(西山ダム下公園内に移築復元)、桃渓橋、袋橋のみが文化財の対象となっている。
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2008年03月18日

中島川石橋群1

中島川の形成
 長崎はその昔、深江浦(ふかえうら)とか瓊の浦(たまのうら)と呼ばれていて、現在の諏訪神社辺りから海に向かって長い岬が突き出していて、その突端が現在の長崎県庁である。
 長崎旧記によると、一ノ瀬(蛍茶屋付近)や今の勝山町付近まで波に洗われた瀬があったといわれ、ルイス・フロイスの「日本史」にも天正の初年(1573年)に満潮の時は今の桜馬場町から夫婦川町辺りまで舟が入れたことを記している。
 1570年(元亀元)、長崎はポルトガル貿易港として開港し、長崎の岬に新しい町が開かれ、長崎の人口は増加していく、また町も拡大していった。
 現在の市役所から県庁に至る岬台地と寺町間にあった干潟の入り江は、両岸から相次いで埋め立てられ、護岸が築かれていった。その結果、残された中央部の水路が、現在の中島川になったといわれている。
 かつては舟による海上輸送も盛んで、戦前までは中島川に屋形船が浮かび、眼鏡橋付近まで小舟で荷物を運んでいたという。
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