2008年04月11日

長崎・中島川の石橋群12

東新橋(ひがししんばし)(第八橋)
東新橋(ひがししんばし)
1673年(寛文13)に架けられましたが、寄付者は不明。
1721年(享保6)および1795年(寛政7)の大洪水で崩壊し、1800年(寛政12)に長崎奉行所の費用で三度架設されましたが、昭和57年の長崎大水害で崩壊し、 昭和61年に昭和の石橋として架設されたが、水害の危険を考慮して高い橋に生まれ変わり、橋を渡るのに石段を上るのはしんどい、年寄りの方には大変しんどい石橋となった。
東新橋旧橋親柱東新橋旧橋親柱
 橋の側らに旧橋親柱があり、それんは「寛政七年乙卯七月十九日 洪水舊橋落於是十二年庚申九月再造」の記録と、石工の5名の名前が刻まれた柱がみられる。

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2008年04月10日

長崎・中島川の石橋群11

すすき原橋(すすきはらばし)(第七橋)
すすき原橋 1681年(延宝9)に架けられましたが、寄付者は不明。1721年(享保6)および1796年(寛政8)の大洪水で崩壊し、1804年(文化元)に長崎奉行所の官命で再架設されましたが、昭和57年の長崎大水害で崩壊し、 昭和61年に鉄筋コンクリート橋に改められ。現在は交通量が多く車道化されていて、石橋としての風情は失われている。
 橋銘の由来は、当時、中紺屋町と今紺屋町をつなぐ石橋が架かっていたところから中紺屋町橋、今紺屋町橋とも呼ばれていたが、1882年(明治15)になって漢学者・西道仙により「すすき原橋」と命名された。(草冠に千=すすき・セン)は草が生い茂った様を言う。昔、この付近は草が生い茂っていたことからこの名が付けられ寂びいいところでもあったという。
すすき原橋・旧橋親柱すすき原橋・旧橋親柱
 旧橋親柱が側にあり「文化元年甲子八月官命之」の刻がある。

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2008年04月05日

長崎・中島川の石橋群10

一覧橋(いちらんばし)(第六橋)
 1657年(明暦3)に中国福建省の出身者である唐通事・高一覧が、浄財を募って架けたといわれる。
 1721年(享保6)および1795年(寛政7)の大洪水で崩壊。1801年(享和元)に長崎奉行所の費用で架設されましたが、昭和57年の長崎大水害で崩壊し、 昭和61年に中国福州市産の石材(花崗岩)を使用した石橋として架設されました。
一覧橋(いちらんばし)(第六橋)
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2008年04月02日

長崎・中島川の石橋群9

古町橋(ふるまちばし)(第五橋)
 1697年(元禄10)に貿易商・河村嘉兵衛(河村甚右衛門?)の母で妙了尼(みょうりょうに)の私費によって架けられた。1721年(享保6) 洪水で崩流。1739年(元文4)僧・周傳により再架。1795年(寛政8)破損、1796年(寛政8)の大洪水で崩壊したといわれている。1803年(享和3)に長崎奉行所の費用で架設されましたが、昭和57年の長崎大水害で崩壊し、昭和61年に石橋として架設されました。橋の名は町名に由来。
昭和61年架設された古町橋
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2008年03月28日

長崎・中島川の石橋群8

編笠橋(あみがさばし)(第四橋)
編笠橋(あみがさばし) 1699年(元禄12)に豪商・岸村氏夫妻の寄付によって架けられましたが、1795年(寛政7)の大洪水で崩壊。
 1802年(享和2)に長崎奉行所の公費で再架設された石橋が現存していましたが、昭和57年の長崎大水害で崩壊し、昭和61年に昭和の石橋として架設されました。
 名前の由来、今博多町は当時「あめがた町」と呼ばれたことにちなむとされるが、ほかに、昔この付近には花柳街があり、この橋を渡る人たちは少々恥ずかしいので、編笠で顔を隠し渡ったからともいわれている。

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2008年03月27日

長崎・中島川の石橋群7

大井手橋(第三橋
大井手橋 1698年(元禄11)岡市郎右衛門正敏が私財を投じ架設。唐通事・林道栄が銘を作った。
2度洪水で流失し、架け替えられ、3度目は1804年(文化元)長崎奉行所により架設された。
 この場所は二つの川の合流地点であるために、昭和57年の長崎大水害で全壊。1986年(昭和61)鉄筋コンクリート橋となる。
 大井手橋は『長崎ぶらぶら節』のなかで ♪大井手町の橋の上で 子供の凧喧嘩 世話町は五六町ばかりも 二三日ぶうらぶら、ぶら〜りぶら〜りというたもんだいちゅう♪と歌われています。

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2008年03月25日

長崎・中島川の石橋群6

桃渓橋 市指定有形文化財 昭和46年10月21日指定
桃渓橋 中島川の支流、堂門川(どうもんがわ)と銭屋川の合流点に位置し、堂門川に架かる。1679年(延宝7)、僧・永島仁左衛門卜意(ぼくい)が在留唐人の寄付を集め架設。河畔に桃の木が多くあり、桃の名所として有名だったことが橋銘の由来。また架設した卜意の名をとり「卜意橋」ともいう。
昭和57年の長崎大水害により半壊したが、昭和60年に復元された。

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2008年03月24日

中島川の石橋群5

高麗橋(第二橋)市指定有形文化財 昭和46年10月21日指定
 中島川にそそぐ一ノ瀬川の下流域、伊勢宮神社前の銭屋川に架かる石橋。
 1652年(承応元) 興福寺の檀徒である明の平紅府(紅蘇省蘇洲府)の人々の寄進で架設された説や伊勢宮神社の惣町の寄進で架けた説、それに、陸手(くがて)28町の乙名の寄進で架けられた等のいくつもの説があり、誰が架けたかは不明。名前の由来は、新高麗町(後に伊勢町)にあったからという。
 その後何度かの洪水で壊れたり流失したりで、1866年(慶応2)に麹屋町の商人である池島正助が私費を投じて架け替えた。1915年(大正4)には鉄筋コンクリートによる橋上面の拡幅工事が行われた。
 長崎大水害後、解体され、旧橋は、平成5年に西山ダム下の公園内に移築、復元されている。
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2008年03月23日

阿弥陀橋と園山善爾

阿弥陀橋を寄進した園山善爾(そのやま ぜんじ:1614年〜1694年)
 園山善爾は、泉州堺(大阪)の農家の家系であったが、商人となり長崎入りし、唐貿易で莫大な財をなした。1681年(天和元)〜84年(貞享元)長崎が飢饉に陥ったとき善爾は施粥をし、多くの長崎住民を救っている。
 また、善爾は信仰も厚く、浄土真宗大谷派向陽山・光永寺(古町)の門徒で経蔵を本堂脇に建立寄進。それに「処刑場へ送られる囚人達の心情を思い、今生の改心と来世の成仏を願って」私費で1690年(元禄3)阿弥陀橋を寄進。なお、光永寺にはその功績を称えた園山善爾石像や石碑が境内に置かれてある。
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2008年03月22日

中島川の石橋群4

阿弥陀橋(第一橋)市指定有形文化財 昭和46年10月21日指定
 中島川の上流である一ノ瀬川に架かる石橋で1690年(元禄3)に泉州堺(大阪)出身の唐貿易商・園山善爾(そのやまぜんじ)が寄進したもの。日本人の寄進で架けられた最初の石橋。
 名前の由来については、江戸時代、死刑囚が市中引廻しの途中最後に渡った橋で、人生最後の念仏をとなえながら渡る姿があったからという説があるが、確かな根拠は定かではない。また、1691年に橋のたもとに阿弥陀堂が建てられたことにも由来するという。古くは極楽橋と呼ばれることが多かったといわれる。
 【長崎名勝図絵】に、「鎮治の東八幡町の旁に在て一瀬川に跨る 其の傍に弥陀の仏像を奉ず 名づけて極楽橋とし、又呼で阿弥陀橋と云う 元禄三年十一月園山善爾建つ銘あり」と記してある。
 当時の阿弥陀像は明治初年、寺町の深崇寺に移され、現在の阿弥陀堂は近年建立されたものである。
 1982年(昭和57)長崎大水害後、中島川の河川改修に伴って解体され、阿弥陀橋の石材は保管されているが、移転場所は現在検討中とか、現在は鉄筋コンクリートに改造されている。
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