2008年05月04日

長崎・中島川上流の川名

複雑な中島川上流の川名
 中島川は流域によって色々な異なる名前がある。下流は中島川(旧・大川)であるが、大井出橋付近の合流部を二股川、西山からの流れを西山川、立山から西山への流れを五郎川、大手橋(堂門橋)付近を堂門川、阿弥陀橋付近を洗濯川、阿弥陀橋上流の銭屋橋・紅葉橋(伊良林1丁目)付近を銭屋川、鳴滝との合流部を二の瀬川、蛍茶屋一の瀬橋付近を一の瀬川傾城川といい、矢の平からの流れを矢の平川という。
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2008年05月03日

鎮西橋

鎮西橋(長崎市伊勢町)
鎮西橋
 鎮西橋は、中島川上流・堂門川(西山川)に架かり、1934年(昭和9)年に架設された。
 今では国道34号線と一体化している鉄筋コンクリート造アーチ橋である。親柱に石灯籠が設けられるなど、当時としては最高の装飾が施されている。橋の上は路面電車の諏訪神社前電停となっている。

鎮西橋・石灯籠
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2008年05月02日

大手橋(堂門橋)

大手橋(堂門橋) 長崎市新大工町入口
 中島川上流・堂門川(西山川)に架かる石造アーチ橋の大手橋(堂門橋)。長崎街道につながる最初の石橋。
大手橋(堂門橋)
 初めは木廊橋で架けられてあったが、1650年(慶安3)、唐通事・高一覧(帰化名・深見久兵衛)の私財と募った浄財で石造が架けられた。高一覧は後1657年(明暦3)、桶屋町と麹屋町間に「一覧橋」をも架橋している。
 大手橋は1721年(享保6)の大洪水で破損。掛り町の北馬町、南馬町、新大工町より銀1貫500目を拝借し修復された。1932年(昭和7)頃、交通に不便ということで、それまでの階段付きの上部を車が通れるように改造。1934年(昭和9)大手橋の擬宝珠親柱1本が眼鏡橋に補充活用された。1982年(昭和57)の大水害災害復旧の河川改修工事に伴い、現在の橋の上部は改修されたが、橋下部には今も石造アーチ部分が残っている。
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2008年05月01日

長崎・中島川石橋群

古橋・ふるばし(旧中河橋・なかごばし)(中島川上流・鳴滝川に架かる橋)
長崎市指定有形文化財:昭和47年6月10日指定
古橋・ふるばし(旧中河橋・なかごばし) 1654年(承応3年)唐通事の林守壂(りんしゅでん)(帰化名・林仁兵衛)が架設。眼鏡橋から数えて6番目に架けられた石橋で、旧長崎街道への玄関橋であった。はじめは「中河橋」(なかごばし)といったが、1918年(大正7年)下流に「中川橋」ができたため「古橋」と改称された。
 アーチ両脇の布石が、矢印記号のように噛み込んでいるのが特徴で、石工の技術のたかさがうかがえ他には例を見ない貴重な石橋。
 側面から見ると、この橋は約1mちかく野石で高揚げされ欄干の丸親柱が埋もれているのがわかる、これは明治初期、人馬・人力車が通れるように段差を埋めたものと考察されている。橋付近の「いしだたみ」は清時代の江南風舗装術のエキゾチックなもので、歌にも唄われる「坂の長崎石畳」の最古の風情である。
場所:長崎市桜馬場町2丁目


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2008年04月30日

一ノ瀬口(いちのせぐち)

一ノ瀬口(いちのせぐち) 長崎市指定有形文化財:昭和45年10月7日指定
 一ノ瀬口は、一ノ瀬橋を中心とする旧長崎街道の一部を言う。
一ノ瀬橋 一ノ瀬橋(中島川上流・一ノ瀬川に架かる橋)は、唐大通事陳道隆(1617〜1676)によって架けられた。道隆は日本名を潁川藤左衛門といい、前妻慶林の没後、後妻に代官末次平蔵の娘を迎えるが、その妻・法春院も1652年(慶安5)に病没した。その法要追善として翌1653年(承応2)に日見峠への道筋にあたるこの場所にアーチ式石橋「一ノ瀬橋」を架けた。
 橋銘にローマ字で「ICHINOSEBASHI」とあるが、これは、1887年(明治20)頃刻まれたものであるという。(一説には1882年(明治15)の日見国道改修の折り説がある)
 昔、一瀬橋の傍らには「一瀬の茶屋」という茶屋があったが、この付近は清流が流れ夏は蛍が乱舞する名勝地だったことから、いつしかこの茶屋を「蛍茶屋」と呼ぶようになった。また、長崎を旅立つ人と、見送りの人たちが別れを惜しんで酒を酌み交わしたのも、 この茶屋であった。
場所:長崎市本河内町

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2008年04月29日

出嶋橋

出嶋橋(でじまばし)
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 出嶋橋は、一般に使用されている道路鉄橋としては、日本で最も古い橋梁であり、日本の近代橋梁建設の歴史において貴重な歴史的遺産であることから、平成15年11月に土木学会より選奨土木遺産として認定をうけている。

出嶋橋
 出嶋橋は本来、1885年(明治18)の中島川変流工事の際、1890年(明治23)、中島川の河口(現 玉江橋付近)にアメリカから輸入された錬鉄製のピン結合のプラットトラス橋「新川口橋」として架設されていた。その後、新川口橋の下流に新しく「玉江橋」が架けられ交通上存置の要が少なくなった新川口橋は撤去され、老朽化していた旧出島橋(木鉄混交橋・明治22年竣工)の代わりに、1910年(明治43)、この「新川口橋」が移設され出嶋橋と改称された。そのために、江戸町側の橋の上部にある橋銘板には「明治四十三年架」と記されている。それから、1945年(昭和20)の原爆被害などで腐食が進み、1950年(昭和25)の国際文化都市建設法によって改修され今に至っている。
唐草模様と「出嶋橋DESHIMA-BASHI」橋銘板
 ユニークなのは橋の上部両端に施された唐草模様と、上部中央に付いた黒い橋銘板で、この銘板はコウモリを思わせるモチーフになっていて出島町側には「出嶋橋DESHIMA-BASHI」と金色で刻まれている。

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2008年04月28日

長崎・中島川と石橋群

長久橋(ちょうきゅうばし)
長久橋
 中島川の一番下流に1672年(寛文12)東築町〜西濱町間(現:江戸町〜銅座町)に博多商人の博多屋清右衛門らの寄付で木橋の長久橋が架けられた。1682年(天和2)に大雨で流出し、その後も流失再架が繰り返されたが、1885年(明治18) 港湾第1期改良工事の一環、中島川の変流工事で姿を消した。
 明治後期、中島川が出島と江戸町の間を流れるように変えられたのを機に長久橋も現在の位置に木橋で再架されるが、1930年(昭和5)交通量の増加などで鉄筋コンクリート橋に架け替えられ、さらに1967年(昭和42)現在の姿となった。
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2008年04月27日

銕橋・くろがね橋

日本最初の鋼鉄製鉄橋・銕橋(くろがねばし)
 大正時代の終わり頃の銕橋(くろがねばし)。
大正時代の銕橋
 築町側より撮られたもので、奥の建物が今の浜町アーケードの入口になる。
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2008年04月26日

日本最初の鉄橋・銕橋

日本最初の鋼鉄製鉄橋・銕橋(くろがねばし)
くろがねばし親柱 1632年(寛永9)、第7代長崎奉行・竹中采女正重義が中島川両岸の海辺を埋め立てて護岸を構築。同年、竹中采女正は濱町〜築町間に屋根付きの木廊橋、通称「大橋(第十五橋)」を架け濱町一帯の開発が始まる。その後1663年(寛文3)、木廊橋より平橋に架け替えられる。1867年(慶応3)の豪雨で橋が大破。それ以前も何度も水害被害を受け流失、大破していることから、堅牢なものにしようということで鉄橋の建設が決まった。
 長崎製鉄所へ発注され、鉄橋が造られた。設計はオランダ人技師ホーゲルがあたり、長崎製鉄所の頭取・本木昌造(「近代印刷の祖」として知られる人物)の監督施工により、長さ27.2mの鉄の桁を渡し、幅6.5m、板を張った橋で、欄干には黒く光る擬宝珠が飾られた鉄橋が1868年(慶応4)8月に完成。
 1931年(昭和6)には鉄筋コンクリート製に架け替えられ、その後1990年(平成2)に再度架け替えられた。橋のそばには初代にあった石柱が残されている。
現在の鉄橋
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2008年04月25日

萬橋の逸話

萬橋の逸話
 長崎奉行『犯科帳』に、延宝五丁巳年(1677年)10月20日夜に起きた丸山乙名・渡邊与惣兵衛殺害事件とその判決を記した記録がある。
 京都から長崎に商いに来ていた金屋喜右衛門は、この夜(10月20日)丸山乙名・丸山遊郭渡邊与惣兵衛宅に泊まっていた。そこへ外出していた与惣兵衛が夜中、酒に酔い帰宅し、金屋喜右衛門の下人・市平が寝込んでいるのを見て杖で殴打した。市平が起き上がり、口論がつのって与惣兵衛を切り殺するにいたった。その後、長崎奉行所の白洲にてお裁きがあり、同年11月16日、下人・市平は斬罪に処せられた。また主人の金屋喜右衛門はその現場にいて殺害を黙視し、ともに立ち退いたことは不届きであり、その過料として当時の奉行・牛込忠左衛門は金屋喜右衛門に本鍛冶屋町(1678年(延宝6)5月に万屋町と改称された)に石橋を架けるよう言い渡したという。
 この石橋が、1678年(延宝6)、金屋喜右衛門によって架設された萬橋である。
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