2007年12月02日

長崎奉行と地役人2

長崎奉行2
 小笠原一庵の後は、長谷川左兵衛藤広、長谷川権六藤正などが任命されたが、この時期の長崎奉行は1人制で、長崎の内町を支配、奉行は常時長崎に駐在するのではなく、ポルトガル船などによる貿易の時期にだけ長崎に駐在し、ポルトガル船などが帰帆後(10月頃)江戸へもどるというパターンであった。
 しかし、1633年(寛永10)奉行竹中采女正重義(前・豊後府(大分県)城主)が悪政と汚職のために職を解かれ息子とともに江戸で切腹に処せられると、幕府は長崎奉行の改革を行い、以後、長崎奉行を2人制とした。
 更に、1637年(寛永14)島原の乱が起こると、幕府は長崎警備の重要性を痛感し、1638年(寛永15)から長崎奉行を老中直属とし、長崎に常駐させることとした。
1人は江戸詰(在府)、もう1人は長崎詰(在勤)とし、1年ごとに交代する制度となった。
 鎖国体制後の長崎奉行の任務は、長崎の治安維持、外国貿易の監督、キリシタンの取締り、長崎港の防備などであった。
 長崎警備においては、福岡(黒田藩)、佐賀(鍋島藩)の二藩によって交代で警備が担当されることとなり、長崎港内外に遠見番、烽火台、番所、台場などの施設が設けられた。
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2007年12月01日

長崎奉行と地役人1

 ※今月は長崎奉行と地役人のことに付いて調べみることに。

長崎奉行1
 大村氏の所領であった長崎は、1580年(天正8)大村純忠が長崎・茂木を、1584年(天正12)には有馬晴信が浦上村をイエズス会に寄進していたが、九州を平定した豊臣秀吉は1588年(天正16)に長崎・茂木村・浦上村を直轄地とし、ついで肥前佐賀城主鍋島直茂を長崎代官(初代)とした。1592年(文禄元)には初代長崎奉行として寺沢広高(肥前唐津城主)が任命された。これが長崎奉行の前身である。
 秀吉死後、1603年(慶長8)、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が成立する。長崎行政の所管は江戸幕府に移った。徳川幕府も、秀吉の政策を継承、長崎を直轄地(天領)とし、旗本小笠原一庵を長崎奉行に任命した。以来、1868年(明治元)、最後の奉行となった中台信太郎まで、 276年の間に長崎奉行に任命された者は127人におよんだ。
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