2007年12月13日

長崎奉行と地役人12

組頭・日行使・五人組
 組頭は、乙名の補佐役で、最初は毎年2月に入札で一町に3人ずつが任じられた。しかし、選出に当たって不正が多く、1765年(明和2)入札による選出は廃止され、人数は2人となり、一生勤となった。
 日行使は、組頭の下にあってそれを補佐した。同職は専業で、各町に1人ずつが任じられた。
 5人組は、町内における下部組織で、5人ずつをもって組織された。幕府は、納税の励行とキリシタンの摘発を主眼に、寛永以降、しばしば法令を発布してこれを制度化、全国の天領にくまなく組織させた。
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2007年12月12日

長崎奉行と地役人11

乙名(おとな)
 町年寄の監督の下、実際に各町を支配したのが乙名で、その補佐をしたのが組頭と日行使であった。一般住民の居住する77ヵ町の乙名である惣町乙名が77名(1町1名)、丸山・寄合の傾城(けいせい)町が各1名の計2名。唐人屋敷乙名4名に、出島乙名が2名だった。世襲制で、町ごとに1名ずつ置かれたが、その任務は、町内外の各方面に及んでいた。1768年(明和5)からは年番乙名が6人、されに、1784年(天明4)からは乙名頭取が4人それぞれ任じられ、各町乙名の監督にあたった。乙名は、年行司、盗賊吟味役、旅人改方、俵物方掛、船改役など実に20種以上の加役があったが、さらに、長崎会所目付、出島乙名、唐人屋敷乙名、年行司などは、惣町乙名が昇格した。

長崎歴史文化観光検定(長崎検定)復習問題
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2007年12月11日

長崎奉行と地役人10

町年寄(2)
 1699年(元禄12)内町外町の区別が廃止され、長崎80町すべてが長崎奉行の支配下になると、外町常行司の福田伝次兵衛重好、久松善兵衛忠辰を新たに町年寄に任命。これより6人制となり貿易事務を分掌する。さらに、1822年(文政5)以降は、高木、高島(二家)、後藤、薬師寺、福田(二家)、久松(二家)の9人制となり、維新に及んだ。町年寄は、年番制で、年番が行制にあたり、添え年番がその補佐にあたった。また、世襲制であった。
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2007年12月10日

長崎奉行と地役人9

町年寄(1)
 長崎奉行の支配のもと、長崎の行制は地役人によって処理されたが、この地役人の最上位の地位にあったのが町年寄であった。町年寄は、最初、頭人(とうにん)と呼ばれ、1587年(天正15)、高木勘右衛門・高島了悦・後藤惣太郎・町田宗賀の4人が長崎頭人に任じられ行政が委任された。1592年(天正20)に頭人の名称が町年寄と改称。町年寄の数は、その後も高木家、高島家、後藤家、町田家による四人制が維持されたが、町田家が没落すると、代わって高木彦右衛門永貞が、さらに1697年(元禄10)高木彦右衛門貞親が唐蘭商売元締めに任じられると、外町常行司の薬師寺又三郎種政が同職に任ぜられた。このように初期の頃は、町年寄の4人制は維持されていた。
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2007年12月08日

長崎奉行と地役人8

長崎代官(2)
 末次家の断絶後、長崎代官の制度はなくなり、町年寄がその職を代行したが、1739年(元文4)長崎代官が再設され、御用物役高木作右衛門忠與が長崎代官に任じられた。
以降、作右衛門忠興(忠與の3男・菊次郎)・作右衛門忠任・作右衛門忠篤・健三郎忠顕・作右衛門忠知と歴代の世襲となり、明治維新を迎えた。
 長崎代官は勘定奉行直属で、長崎村・浦上村山里・浦上村淵・茂木村・古賀村・日見村・川原村・高浜村・野母村・樺島村など天領10村を支配した。幕末には天草代官も兼務した。長崎代官の屋敷は、勝山町(現・桜町小学校の地)にあったが、この地は村山等安、末次平蔵などの屋敷地だったものを引継いだものである。
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2007年12月07日

長崎奉行と地役人7

長崎代官(1)
 長崎代官は、1588年(天正16)に豊臣秀吉によって任じられた鍋島飛騨守直茂がその最初で、直茂の後任には、村山等安が任じられた。等安の生まれは不明であるが、秀吉に認められ、朱印船貿易家として秀吉お気に入りの呂宋壷(中国で作られた質素な壺で日本では茶道の道具として使われた)の買い付けなどをしていたといわれる。しかし、1616年(元和2) [1619年(元和5)?説も]、末次平蔵政直にキリシタンであると訴えられ罷免し甲斐に流され後、江戸で処刑された。等安に代わって代官に任じられたのが、博多商人の末次平蔵政直で、以後、末次家は、2代・茂貞、3代・茂房、4代・茂朝と続いた。しかし、末次家も、1676年(延宝4)4代・茂朝のときに国禁品の密貿易が発覚、茂朝父子は隠枝に流罪、茂朝の母長福院やその家族は壱岐に流されるなど、関係者はことごとく処罰された。そして、巨額の財産は全て没収され、末次家は断絶した。
 末次家没落後、代官事務は町年寄のうち2人が加役(兼務)で外町を支配、長崎代官の制度がなくなる


長崎歴史文化観光検定(長崎検定)復習問題

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2007年12月06日

長崎奉行と地役人6

目付(2)
 目付の身分は、布衣の格式であったが、長崎奉行の監視役としてその発言力は強く、なかには1726年(享保11〜17在勤)の三宅周防守(三宅大学康敬)のように長崎奉行に昇格する場合もあった。
 目付の屋敷は、1715年(正徳5)長崎奉行立山役所の上段平地岩原郷(現・立山一丁目・長崎歴史文化博物館ゾーン)に新築され、目付をはじめ勘定方や普請方などの役宅とされた。総坪数863坪で、御本屋1棟、土蔵1棟、東長屋1棟1部屋、向長屋1棟2部屋、川上長屋1棟1部屋、厩長屋1棟4部屋があった。
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2007年12月05日

長崎奉行と地役人5

目付(1)
 目付は、1715年(正徳5)の「長崎新令」(正徳新令))によって制度化され、目付が長崎に常駐するようになる。最初の長崎在勤の目付として、石川三右衛門(1715年・正徳5年2月着任)と大久保一郎右衛門(同年8月着任)が任命された。
 半年交代で勤務したが、1人勤務や欠員の時期もあった。とくに1732年(享保17)以降は、欠員の年がほとんどであったが、1805年(文化2)にロシアとの交渉(ロシア使節レザノフと3回にわたり会見)に派遣された目付・遠山金四郎景晋や1835年(天保6)密貿易の取締りのために派遣された戸川播麿守などのように臨時に派遣される場合もあった。
1838年天保9目付の在勤が廃止された。
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2007年12月04日

長崎奉行と地役人4

長崎奉行4
 長崎奉行の直属の役人としては、1665年(寛永5)以降、与力が5人から10人に、同心が20人から30人体制になる。一年交代で、江戸と長崎の間を往復した。また、その家臣については、それぞれの石高等によって相違があった。
 1687年(貞享4)、長崎奉行の与力、同心制度が廃止。町年寄制度が充分に整備されたため奉行抱えの給人10人、下役30人に変わる。
 1842年(天保13)、奉行所の機能の充実が必要となり、再び与力、同心が置かれる。与力10人、同心15人となる。
 長崎奉行所は最初、1592年(文禄元)、本博多町(現・万才町NTT長崎付近)に設けられたが、1663年(寛文3)、寛文の大火(66町の内57町全焼)で焼失したため、外浦町(現・江戸町長崎県庁)に東役所・西役所が設置された。1671年(寛文11)に東役所が立山(現・長崎歴史文化博物館在地)に移され、1673年(延宝元)立山役所と改称された。旧役所は西役所となる。以後、立山役所総坪数3,278坪と西役所総坪数1,679坪は明治維新に廃止されるまで、長崎奉行所とされた。
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2007年12月03日

長崎奉行と地役人3

長崎奉行3
 1686年(貞享3)には3人制(1人は在府、2人は在勤)、1699年(元禄12)には4人制(2人は在府、2人は在勤)となったが、1714年(正徳4)以降は、目付けが設けられたこともあって、再び2人制となった。また、1746年(延享3)から貿易監察のため、一時、勘定奉行が兼任した。
 長崎奉行の役高・役料は、時代によって異なるが、1767年(明和4)以降は役高1000石、役料4402俵であった。しかし、オランダ船や中国船から脇荷を安価で購入する権利を与えられたほか、オランダ人・中国人や地役人からの八朔銀などの献上もあり、その収入は他の遠国奉行のなかでも優遇されていて、短期の任務でも莫大な蓄財が容易であった。また、長崎奉行は、長崎警備においては、福岡・佐賀の二藩を監督する立場であったので、俗に10万石の大名の格式といわれた。その叙爵は、1699年(元禄12)以降例となり、従五位下何々守と称したが、江戸城中においては「諸太夫席・芙蓉間詰め」の格式であった。
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