2007年12月25日

唐人屋敷と中国文化7

宿町(やどちょう)・付町(つきちょう)制
 宿町・付町制とは、市中(長崎は内町、外町からなる「市中」と、村落部である「郷」から成り立っていた)の各町が順番に、来航した中国人に船宿業務を行う制度。
 鎖国前、来航唐人は、自由に市中の「船宿」と呼ばれる町人宅や、住宅唐人宅に宿泊していた。住宅唐人の中には、宿の仲介、売れ残り品を預かるなどをし、「口銭・こうせん」と呼ばれる手数料を得ていた。1641年(寛永18)、その口銭取得に目を付けた長崎の町人は、宿主ばかりが潤うことに不満を抱き、町への助成として唐船船主の口銭取得分を銀3貫目とし、残りを長崎の内町・外町で分けることになった。この年から日本側から宿屋を斡旋する宿町という制度が生まれた。さらに、1653年(承応2)宿町を補佐的な業務をする付町が作られ、消防や人夫の斡旋などを行う。1655年(明暦元)の糸割符制廃止時には、宿主の取得分が半減らされ、その分長崎全体の収入に加えられた。1666年(寛文6)、公的な経営に移されて、宿町・付町制が確立された。この制度は1689年(元禄2)唐人屋敷設立によって停止となるが、貿易に関する業務はその後も担当し、唐人の貿易管理、統制を行う。幕末まで続いた。
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2007年12月24日

唐人屋敷と中国文化6

信牌(しんぱい)
信牌 信牌は、各船に貿易許可証として渡されていた。毎年日本に渡来するつど更新され、その発行者は唐通事で、民間契約の形をとっていた。来航した唐船の所持する信牌と奉行所の持つ発行台帳の「割符留帳(わっぷとめちょう)」と照合し、検査した。唐通事の名は、発行台帳である「割符留帳」には日本性・名であるが、信牌の文面には本姓(中国姓)で書かれてあった。

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2007年12月23日

唐人屋敷と中国文化5

新地・荷揚水門
唐船入津絵巻より 唐船が入港の合図の石火矢を放ち長崎港口に姿を見せると、出迎えの番船と数10隻の曳船を出し、港の中へと誘導された。唐船が新地沖に投錨すると、奉行所の検使や通事、宿町(やどちょう)・付町(つきちょう)の乙名が、船員・出港地・信牌(しんぱい)などを確認し、踏絵の後上陸が許された。その後、荷揚げ(丸荷役・まるにやく)を行う。丸荷役では、宿町・付町の雇った人夫が水門から新地荷物蔵に運び入れ、検使の封印を受けた。
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2007年12月22日

唐人屋敷と中国文化4

新地の規模
 東西(銅座町から湊公園方向)は70間(約127m)、南北(籠町から出島町方向)は50間(約91m)、総坪数は3,500坪で、12棟60戸の土蔵、荷役場、役人詰所などが建てられていた。新地の構内は、土塀でもって囲まれていて、西南の角には西の番所が、北西側の中央部には北門が、北東側には正門が、南東側に東の番所が、南の角には南の番所がそれぞれ設置されていた。新地の南側には水門が4つあり、一番水門、二番水門、三番水門、四番水門とよばれた。この水門には、いずれも検使場や改場がそれぞれ一棟ずつあったが、荷物蔵は一番水門に3棟、二番水門に2棟、三番水門に2棟、四番水門に1棟あった。この新地を築造した39人の内、3人は新地頭人、残りの36人は蔵主と呼ばれた。1865年(慶応元)頭人や蔵主達は新地を献納、以後官有地となり、1868年(慶応4)居留地に編入され華人街となる。
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2007年12月21日

唐人屋敷と中国文化3

新地
 新地は、中国人に貨庫と称され、長崎では新地蔵、新地蔵所、新地土蔵などと呼ばれ、唐船の貨物を収納するため、1702年(元禄15)に築造された。
 築造の目的は度々おきる長崎の大火災から唐船の荷物を守るためだあった。1698年(元禄11)後興善町から出火した火事(元禄の大火)は、付近の町22ヵ町に延焼、焼死者8人、人家2,044戸、土蔵33棟などを焼失するなどの大火となったが、特に深刻だったのが、樺島町や五島町の土蔵33棟に収納していた唐船20隻分の荷物(代銀3,377貫目分:約67億円)の焼失であった。そこで、これらの荷物を火災から守るため土蔵所持の町人39人は連名で唐人屋敷に近い海を埋立て人工の島を築造、唐船の荷物を収納するための土蔵を建築した。これが新地(現・長崎市新地町)である。また、その形から当時は碁盤島とも呼ばれていた。
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2007年12月20日

唐人屋敷と中国文化2

糸割符(いとわっぷ)
 「糸割符制」は1604年(慶長9)に始まった貿易統制制度。ポルトガル船によって輸入される白糸(中国産生糸)を統制したもので、ポルトガル人にはパンカドと呼ばれた。その取引は、堺、京都、長崎の三ヵ所の商人たちに三ヵ所糸割符仲間を組織させ(後に江戸、大阪が加わり、五ヵ所商人となる)、その代表である糸割符年寄がつけた値段で一括購入し、それを国内の商人に時価で売却するものであった。その際の購入価格と売却価格とに生じた差益は、必要経費を除いた残りが持ち株に応じて仲間全員に配分され、莫大な利益をもたらした。この糸割符制によってポルトガル貿易は、大きな打撃を受け衰退。「糸割符制」は1655年(明暦元)には廃止。幕府は、これより以前の1631年(寛永8)唐船が舶載する白糸も糸割符制で統制することにして、唐船の入港を長崎のみに限定した。さらに、唐船と同様、オランダ船が舶載する白糸も糸割符制で統制することにして、1641年(寛永18)にオランダ商館を平戸から長崎の出島に移転させた。
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2007年12月19日

唐人屋敷と中国文化1

唐人屋敷と中国文化
唐船の来航
唐船入津の図 長崎での中国貿易は、「長崎夜話草(やわそう)」西川如見の筆録によると、1562年(永禄5)長崎港外の外町浦(現・長崎市深堀町付近) 深堀氏領で行われたのが最初であったといわれている。
 1570年(元亀元)長崎がポルトガル貿易港として開港されると、多くの唐船も長崎港に来航するようになる。
 さらに、江戸時代になると、ポルトガル貿易やオランダ貿易と同様、中国貿易は一段と盛んになったが、1631年(寛永8)中国貿易も糸割符仕法で統制されることになり、1635年(寛永12)、唐船の入港は長崎だけに限定された。

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