2008年01月08日

唐寺と媽祖(菩薩)信仰1

媽祖(まそ)1
航海神媽祖 媽祖は、航海の守護神で、菩薩(ぼさ)とか天后(てんこう)とも呼ばれ、中国の宋代に福建省で起こった土俗的な信仰であったが、元代になると航海神として江南地方から北京へ糧米を運ぶ全ての船舶に祀られるようになる。明代になると東アジアの各地に広まり、長崎に来航する唐船には、必ずこの航海神媽祖が祀られていた。そこで、長崎港に碇泊中は、唐船から降ろした媽祖を安置する祠堂が必要となった。しだいに来航する唐船の数が増加して、郷幇(ごうはん・同郷出身者の仲間組織)が結成されると、その集会所に安置されるようになった。この集会所が後に唐寺として整備されていく。

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2008年01月07日

唐寺と中国文化2

唐寺2
 長崎に来航した中国人達は、それぞれの出身地ごとに同郷団体幇(郷幇:ごうはん・同郷出身者の仲間組織)を組織したが、興福寺は三江幇(さんこうはん)[江南、江西、浙江(せっこう)]、福済寺は泉章幇(せんしょうはん)、崇福寺は福州幇(ふくしゅうはん)というように、それぞれの幇によって維持管理された。しかし、興福寺をはじめとする福済寺や崇福寺の創建当初の形態は、媽祖を預かる祠堂としての性格が強かったと考えられている。
聖福寺の広東幇(かんとんはん)を含め四幇(よんはん)があった。
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2008年01月06日

唐寺と中国文化1

唐寺1
 1570年(元亀元)に長崎が開港され、ポルトガルとの貿易が開始されると、数年を経たずして、唐船が入港するようになる。長崎に来航した中国人達は、稲佐やその周辺の対岸地区に多く居住した。中国人と稲佐の結びつきは、元和の初め頃欧陽華宇(おうようはう)と張吉泉(ちょうきちせん)といった有力唐人が稲佐の「悟真寺」を菩提寺として百間四方を墓地に定めたことで、一段と緊密なものとなった。悟真寺(浄土宗)は、1598年(慶長3)に筑後国出身の僧、聖誉玄故(せいよげんこ)によって開かれた寺院であるが、中国人等の帰依を得たことで大いに発展するかにみえた。しかし、ポルトガル貿易が統制され、ポルトガル人達が出島に収容されるようになると、中国人達は長崎の市中に住むようになり、1620年(元和6)に興福寺が建立され、ついで1628年(寛永5)に福済寺が、1629年(寛永6)に崇福寺がそれぞれ建立されると、悟真寺を菩提寺にする在留唐人の数はしだいに減少していった。
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2008年01月05日

唐人屋敷と中国文化14

彩舟流
 彩舟流し(さいしゅうながし)は、流れ勧請とも言われた唐人屋敷内での施餓鬼法要である。
 彩舟流には、「小流し」「大流し」の二つがあり、「小流し」は毎年行われ、長さ約3.6m程の模型の舟を作り、それに荷物や人形を作って乗せ、唐寺の僧侶を招いて法要をしたあと、唐人屋敷前の海岸にだして焼かれた。
 「大流し」は、30〜40年ごとに行われた大掛かりなもので、唐人の死者が100人を超えて、1隻分の人数程度になると、舟も7m以上もある模型の唐船を作り、彩色して帆柱、船具などもすべて実物そっくりに作り、飾り付けをして唐人屋敷前の海に浮かべ、港口まで小船で曳かれて焼かれた。「彩舟流」は死者の霊を故郷の中国へ送る行事だったが、明治維新後廃絶した。
 長崎の精霊流し(しょうろうながし)の起源にはいろんな説があるが、代表的なものが、この「彩舟流し」の風習が今日の長崎精霊流しにつながっていると考えられている。
彩舟流図
彩舟流図

勧請・施餓鬼法要とは
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2008年01月04日

唐人屋敷と中国文化13

龍踊図
 龍踊(じゃおどり)は旧暦正月15日の上元祭(じょうげんさい)に行われていて、長崎くんちの奉納踊りの原型である。土神堂前の広場で龍踊りをしていたのを、近くの籠町の日本人が見ていて、龍踊りを中国人に習った。これが今の諏訪神社への奉納踊り長崎くんちの龍踊りである。
土神堂前の龍踊図
上絵図は土神堂前での龍踊り光景。
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2007年12月30日

唐人屋敷と中国文化12

唐人屋敷4
 二の門を入ると、正面には土地神を祀る土神堂があり、その右には霊魂堂があった。この土神堂の前が唐人屋敷の中では最も広い所で、唐船の碇網などもここで編まれていた。また、唐人屋敷で中国人が亡くなった場合は、その遺体は唐3ヵ寺のいずれかに埋葬されたが、船主や一部の上層部の人は次の唐船で本国に送還された。霊魂堂は、その間、遺体を一時安置する場所であった。
 東南の隅には船神媽祖を祀る天后堂が、東北の隅には観音堂があったが、天后堂や観音堂を東南の隅や東北の隅に建立したのは、このような隅が抜荷など悪事の巣になりやすいため、これを防ぐためであった。

土神堂…土神は土地神であるが、財神や天后聖母(媽祖)を併せ祀ったため「福徳正神」ともいわれ、中国では古くから土地・家の鎮守、貿易・商業・豊作・治病の神として、民衆の間で広く信仰されてきた。
天后堂…南京地方の人が航海安全を祈願して、天后聖母とも呼ばれる媽祖を祀ったのが始まりで、関帝(三国時代の武将・関羽。財神、護国救民の神として崇信された)も併せ祀ったため、別名「関帝堂」と呼ぶ。
観音堂…観世音菩薩と関帝を祀る。
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2007年12月29日

唐人屋敷と中国文化11

唐人屋敷3
 1784年(天明04)7月、唐人屋敷が天后堂(関帝廟)を残しほとんどの建物を全焼、当時の在留唐人892人は唐4ヵ寺に収容した。のち、同じく2階建ての瓦葺長屋が新築され、唐人たちの自前の建築が許され再建。長屋は12楝(3間×9間の2階建、延べ床面積648坪)と4分の1に縮小。
 二の門から内に出入りできる日本人は、遊女のほかは門鑑を持つ役人や特許商人に限られていた。
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2007年12月28日

唐人屋敷と中国文化10

唐人屋敷2
 大門の正面には、二ノ門があったが、この大門と二ノ門は二ノ番所、探番所(所持品検査をする場所)、少し離れて牢屋などがあった。なお、唐通事部屋と唐人屋敷乙名部屋は、1棟で43坪。また、1708年(宝永5)以降、この広場では、魚や野菜などの日用品や漆器や伊万里焼などの輸出品の見本を並べた臨時の市店が設けられた。1749年(寛延2)以降は76店で、唐人屋敷乙名が発行する門鑑をもつ指定商人に限られた。唐人屋敷は、二ノ門からは一段と高くなっていて、その左には、制札場があった。この二ノ門の内側は6,874坪あり、二階建ての瓦葺長屋が20棟[3間×36間(2楝)、3間×37間(9楝)、3間×18間(9楝)]で2,000人前後の中国人を収容することができた。他に天后堂(関帝廟)、土神堂、観音堂などが造られていた。
touzinyasiki047.jpg
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2007年12月27日

唐人屋敷と中国文化9

唐人屋敷
 唐人屋敷は唐館ともいい、密貿易の激増に頭を悩ませた幕府が密貿易、キリシタン防止、風紀対策のため中国人の市中雑居を禁じ、居住地区を制限、隔離することになり、1688年(元禄元)に長崎村十善寺郷(現・長崎市館内町)の旧幕府薬草園に工事着工し、翌年の1689年(元禄2)に造成が完成した。唐人屋敷の総坪数は6,830坪、1694年(元禄7)8,015坪に拡張(後に9,373坪余りに拡張)で、練塀(高さ7尺)、その外側に深さ・幅6尺の水掘り・空掘りを巡らし、さらに竹矢来で二重に囲まれ、その間に番所が5棟あった。唐人屋敷の大門は、長さ約30間、幅が約3間の建物(55坪)で、門の右には制札場があり、3枚の制札が掲げられていた。大門の両側には大門番所と新門番所があり、唐人番や船番などが厳重に監視を行った。大門の右には、雨覆貫屋と呼ばれる長屋があったが、ここは唐人の荷物改所であった。なお、唐船の網などもここに保管された。
tozinyasikizu10.jpg
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2007年12月26日

唐人屋敷と中国文化8

荷揚水門2
 上陸が許可され、荷揚げ(丸荷役・まるにやく)が行われると、このあと、積荷の品目・数量確認が行われる(精荷役・せいにやく)。その後、長崎奉行が積荷の見本に目を通す大改めが行われ、商人の下見のあと唐人屋敷で入札となる。
 丸荷役の後、唐人達は航海安全を願う船の神、媽祖像を船から降ろし、ドラやラッパなど打ち鳴らしながら唐寺まで行列をつくり進む。唐寺に到着すると媽祖堂に納め出港まで一時預ける。これを菩薩揚(ぼさあげ)という。その後、わずかな身の回りの品だけを持って唐人屋敷の中へ入った。唐船は、出港の日まで宿町・付町の管理下におかれた。
 ※南京船は興福寺、福州船は崇福寺、章州・泉州船は福済寺にというように媽祖像を預ける寺が異なった。
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