2008年01月18日

唐通事の組織5

唐通事
 唐通事の職務は大別すると、通訳業務、貿易業務、外交事務の三つがあった。唐通事の事務所(会所)は、1751年(宝暦元)に設立され、唐通事会所と呼ばれた。それ以前は年番大通事の自宅にこの事務所を設けて執務していたようである。
 唐通事会所は1751年(宝暦元)今町(現・金屋町)に、さらに1762年(宝暦12) 本興善町(現・長崎市立図書館の地)に設置され、「長崎諸役所絵図」によれば敷地は総坪数156坪と記載されてある。
 このように唐通事は、阿蘭陀通詞のように単なる通訳とは違ってその職域は広く、通訳業務や貿易業務はもとより中国人の私生活に関することまで深く関与していた。唐通事は「つうじ」の「じ」の字を阿蘭陀通詞と相違して「通事」と書くのである。
唐通事会所跡・長崎活版伝習所跡
唐通事会所跡(現:長崎市立図書館の地 旧:新興善小学校)
長崎活版伝習所跡1869年(明治2)本木昌造が唐通事会所跡に長崎製鉄所付属の長崎活版伝習所を設立。
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2008年01月17日

唐通事の組織4

唐通事
 当時の唐船は、タイやベトナムなど東南アジア方面の唐船が多かったが、遷界令(せんかいれい:1661年に清王朝が実施した住民の強制移住政策およびその命令)とともにそれらの唐船の割合が低下、シャム通事、東京(トンキン)通事、モフル通事も、唐年行司や唐船請人と同様、しだいに閑職(重要視されない職)となっていった。
 内通事(うちつうじ)は、本来は私的に唐人たちの通訳や雑用などをして口銭(手数料)を受けていた人たちのことであるが、1666年(寛文6)に168人が公認され、南京方、福州方、泉州方の3役職に分けられ、一船に3人ずつの勤務とされた。さらに、1689年(元禄2)唐人屋敷が造成されると、平(ひら)内通事(無役の内通事)のなかから30人が唐人屋敷詰番内通事とされた。しかし、中国貿易の縮小とともに本来の機能を失い、1708年(宝永5)には廃止された。
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2008年01月16日

唐通事の組織3

唐通事
 唐通事は、馮六以後、しだいに組織や人員などが拡張され、「譯司統譜(やくしとうふ)」によれば、1867年(慶応3)の解散までに、24の役職と延べ1,644人(実数は826人)を数えている。また、唐通事は、もともと大通事(おおつうじ)、小(こ)通事、稽古(けいこ)通事の三段階であったが、時代と共に複雑なものとなり、大通事、小通事と、これから分化した役職は上級通事層を形成、稽古通事以下は下級通事層を形成した。
 大通事の上席に唐通事頭取、唐通事諸立合、御用通事、風説定役(ふうせつじょうやく)、値組(ねぐみ)定立合通事、唐通事目付の6役職が分化、大通事の定員以外として大通事格、大通事過人(かじん)、大通事助(じょ)の3役職が、小通事の定員外として小通事格、小通事過人、小通事助、小通事並、小通事末席の5役職が分化した。
 稽古通事の定員外として稽古通事格、稽古通事見習の2役職がそれぞれ設けられた。また、これらの他にも唐年行司や内通事、唐船請人(内通事小頭見習末席)、シャム(暹羅・Siam)通事、東京(トンキン)通事、モフル通事などが置かれたが、唐年行司の定員外として唐年行司格、唐年行司見習の2役職が、内通事の定員外として内通事小頭、内通事小頭格、内通事小頭見習、内通事小頭助があった。
 唐年行司と唐船請人の役目は、禁教政策ために置かれたもので、特に唐船請人はその名のとおり中国人の保証人であった。最初、この2役職は、住宅唐人の中から有力者が任命されたが、時代と共に本来の意味を失い、1764年(明和元)には、内通事小頭見習末席と改称され地位は低いものとなった。
譯司統譜とは
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2008年01月15日

唐通事の組織2

唐通事
 二世達は、長崎奉行の許可を得て、髪型や衣装、さらには姓を、例えば、陳(ちん)は穎川(えがわ)に、劉(りゅう)は彭城(さかき)に、林(りん)は林(はやし)などに改めた。平野家や中山家、西村家のように母方の姓に改めるものなどもいた。また、これら住宅唐人の子孫は、そのほとんどが唐通事を勤めた。なかでも馮六の子孫の平野家、陳冲一の子孫の穎川家、劉一水や劉焜台などの子孫の彭城家、林公淡や林楚玉などの子孫の林家、熊氏の子孫の神代家、徐敬雲の子孫の東海家などは代表的な唐通事の家柄であった。一部には、前園家(徐前園)、藤田家(鄭一官)のように町乙名などを務める家柄もあった。
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2008年01月14日

唐通事の組織1

唐通事
 唐通事は、中国語の通訳だけではなく、阿蘭陀通詞とは違ってその職域は広く、通訳業務や貿易業務はもとより中国人の私生活に関することまで深く関与した。
 1604年(慶長9)に住宅唐人馮六(ひょうろく)が任命されたのが最初である。
 住宅唐人とは、わが国に住むことを許可された唐人のことであり、1635年(寛永12)唐船の入港が長崎一港に限定されると、各地の唐人が長崎に移住するようになった。しかし、これら住宅唐人は、鎖国体制の強化に伴い、住宅唐人の数は減少していった。さらには17世紀末期になるとほとんど死亡してしまい、日本人を母とする二世達は急速に日本の社会に同化していった。
 鎖国後でも、一部の新規の渡来も認められる場合もあった。それは、隠元の法系の黄檗僧達と、他に、キリシタンで棄教後目明し唐人となった楊六官、黄五官、周辰官の3人や1659年(万治2)に渡来した儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)などがいた。
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2008年01月13日

唐四ヶ寺と黄檗文化4

黄檗宗の渡来4
 黄檗宗は4代将軍家綱、5代将軍綱吉、さらには後水尾法皇(ごみずのおほうおう)等の帰依により爆発的に発展したが、特に、幕府は黄檗宗を準宗旨として優遇した。また、元禄時代は儒教の最盛期で、中国趣味や文人趣味が全国に流行していたが、さらに黄檗宗のような新しい中国文化の伝来も待望されていた。隠元以後、唐僧は隠元の法統(ほうとう)の黄檗僧のみが渡来を許された。その数は、1723年(享保8)に渡来した竺庵(じくあん)を最後として実に40人にものぼった。しかし、唐三か寺の住職は唐僧に限るとされていたので、この竺庵の後も、唐僧招請の努力が続けられた。
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2008年01月12日

唐四ヶ寺と黄檗文化3

黄檗宗の渡来3
 長崎はわが国の黄檗宗の発祥地であるだけに、現在でも興福寺や福済寺、崇福寺、聖福寺以外にも滝の観音(長瀧山霊源院・平間町)も黄檗宗の寺院であり、かつては、大覚寺(八幡町・廃寺)や観音寺(田上二丁目・廃寺)なども黄檗宗の寺院であった。
 黄檗宗は、1874年(明治7)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、「臨済宗黄檗派(りんざいしゅうおうばくは)」に改称させられたが、1876年(明治9)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することを許された。以後、万福寺は、わが国黄檗宗の総本山として、かつては全国に萬福寺の塔頭(たっちゅう)は33ヵ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。 (現在の寺院数は約460ヶ寺・信徒数約350,000人)
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2008年01月11日

唐四ヶ寺と黄檗文化2

黄檗宗の渡来2
隠元禅師画像 隠元隆gは、1592年(万暦20)に中国の福建省福州府福清県に生まれ、後に出家、1633年(崇禎6)に費隠通容(ひいんつうよう)について嗣法(しほう・弟子が師の法を継ぐこと)、1637年(崇禎10)に黄檗山万福寺の住職となった。隠元の渡来を促す逸然等の招請状は、1652年(承応元)から翌年にかけて都合4回出され、1654年(承応3)ついにその渡来が実現した。6月21日厦門(アモイ)を出帆して7月5日に長崎港に到着、翌日、興福寺に入ったが、中国から隠元に従って来た人々は30人もの弟子の他、仏師や絵師など、さまざまの職人も含まれていた。
 隠元が招請に応じたことを知った、隠元の徳を慕う僧俗たちはこぞって渡来の中止を懇願したといわれる。隠元は3年たてば帰国することを約束して出立することになった。無論、隠元は、3年後には帰国するつもりであったが、1658年(万治元)隠元は4代目将軍家綱に謁見を許され、翌年に京都の近郊に寺地が与えられ、一寺を建立することになった。
 このようにして開創されたのが、総本山の黄檗山万福寺(京都府宇治市)であるが、これは、隠元が中国の黄檗山万福寺から来たということを忘れないようにということで、出身地にちなみ、黄檗山万福寺と命名され、ここにわが国のおける黄檗宗が誕生した。

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2008年01月10日

唐四ヶ寺と黄檗文化1

黄檗宗の渡来1
 長崎の唐寺とは、興福寺(1620年創建)、福済寺(1628年創建)、崇福寺(1629年創建)の三つの寺院のことで、唐三か寺、または三福寺と呼ばれていた。なお、この唐三か寺に、1677年(延宝5)に創建された聖福寺を加えて、唐四か寺とか四福寺と呼んだ。
 興福寺の開山、初代の住職は江西省の出身、真円(しんえん)、福済寺は福建省の覚悔(かくかい)、崇福寺は福州の超然(ちょうねん)であった。超然は唐僧であったが、真円は長崎渡来後、剃髪して僧となり、覚悔も渡来当時、僧侶ではなかたようである。
 その後、興福寺は黙子如定(もくすにょじょう)、逸然性融(いつねんせいゆう)、福済寺は温謙戒宛(おんけんかいえん)、崇福寺は百拙(ひゃくせつ)などがそれぞれ住職についたが、まだ寺院としての体制を整えるには不十分であった。
 また、興福寺の3代目住職逸然等は、臨済宗や曹洞宗に代わる新しい禅宗の日本への伝来を熱望していたが、多くの在留唐人達の援助を受けて、当時黄檗山万福寺の住職を務めていた隠元隆埼(いんげんりゅうき)を招請することになった。
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2008年01月09日

唐寺と媽祖(菩薩)信仰2

媽祖(まそ)2
菩薩(ぼさ)揚げ絵図 この媽祖を唐船からおろして唐寺などの媽祖堂に安置することを「菩薩(ぼさ)揚げ」、反対に唐寺などの媽祖堂から唐船に乗せることを「菩薩(ぼさ)卸し」と呼んだ。
 「長崎名勝図絵」によると、その行列の様子は、香江(ヒヤンコン:菩薩役の唐人)が2箇の燈籠を先に立て左右に並び、次に銅鑼や直庫(てっこ)と呼ばれる赤い布を結んだ棒を持つ唐人が並び、その次に媽姐の像を安置した輿がつづく。輿の両側には旗を持つ唐人やその後には蓋傘(かさ)を掲げる唐人らがおり、その後には唐人や唐通事や唐人番などの役人がつづく。道中、十字路に至るごとに銅鑼が鳴らされ、その進行方向に向って盛んに直庫が振られる。唐寺に到着しても同様で、山門や関帝堂(かんていどう)、媽姐堂の前などで銅鑼が鳴らされ、盛んに直庫が振られ、その後、媽姐や直庫を媽姐堂に納めて、唐人たちは唐人屋敷に帰る。なお、菩薩卸しの行列の様子も、この菩薩揚げの行列の様子とほぼ同様であったが、直庫の振り方などが少し違っていたといわれている。
 この媽祖行列は元和・寛永以来幕末まで続いたが、幕末から明治維新の頃には唐船も途絶え、廃絶してしまった。今日では、長崎ランタン祭り、諏訪神社の祭礼「長崎くんち」の奉納踊りにその様子を見ることが出来る。
2007長崎ランタン祭り2007長崎ランタン祭り


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