2012年12月06日

阿蘭陀冬至(長崎:出島)

阿蘭陀冬至(長崎:出島)
 江戸時代、冬至は陰暦の11月中に行なわれた。
太陽暦では12月20日過ぎになるがクリスマスに近いので出島のオランダ人は冬至の祝いに見せかけてキリスト降誕祭を祝った。
オランダ側としてはひそかな宗教的祝祭であったが長崎奉行所も長崎住民もただの冬至の祝いと思っていた。長崎住民が祝う一陽来復の祝日をオランダ人も行なうものと解釈していた。
長崎出島和蘭商館跡:カピタン部屋 阿蘭陀冬至光景

長崎出島和蘭商館跡:カピタン部屋 阿蘭陀冬至光景
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2010年01月04日

阿蘭陀正月

阿蘭陀正月
 長崎出島のオランダ商館の元日の祝い。
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 出島出入りの地役人、商人仲間、使用人、労務者、用務員たちは礼服で年頭の賀詞を商館長(甲比丹・カピタン)に述べた。使用人たちはカピタンからお年玉が出た。
 正午からは奉行所役人、阿蘭陀通詞、出島乙名ら日本人が正月の祝宴に招かれ賀詞を述べた。その後、西洋料理を振る舞うオランダ式の饗宴が始まった。
 牛肉・豚肉・アヒル・うずらなどの肉料理やハム、魚のバター煮、カステラ、ワイン・コーヒーなどが饗されていたようだが、招かれた日本の役人はほとんど手をつけずに持ち帰っていたという。
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2010年01月03日

出島商館長・カピタン、長崎奉行への新年の挨拶

出島商館長・カピタン、長崎奉行への新年の挨拶
甲比丹年頭代理(カピタンねんとうだいり)
 正月二日は阿蘭陀大通詞・小通詞が長崎奉行の玄関で手札(てふだ)を差し出しオランダ甲比丹年頭の礼の代理としての挨拶をした。
 手札には御広間へ、として、甲比丹年頭御礼、阿蘭陀通詞年番。
 また別に御勘定、御家老、御用人へ各2枚宛、甲比丹年頭御礼として大通詞年番の名を記していた。
 手札は今日の名刺の大げさなもので、これで新年のご挨拶をすませたことになる。

※ カピタン(甲比丹)とは江戸時代、オランダ連合東インド会社が日本に置いた出島商館の最高責任者「商館長」のこと。
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2009年11月24日

洋式銃と弾(出島旧石倉展示)

洋式銃と弾(出島旧石倉展示)
洋式銃と弾(出島旧石倉展示)
 平成13年度の出島発掘調査で、カピタン(商館長)部屋跡から洋式銃、弾が発見さた。口径約1.2センチ、全長約31センチのリボルバー式で、1845年以降にヨーロッパで生産されたものと推定されている。
 銃は、19世紀中頃にフランスのル・フォショウにより発明されたもので、フランス、ベルギーなどヨーロッパ各地で製作された。同様のタイプの銃が、幕末から明治期にかけて日本国内に輸入されていた。この銃は、出土状況から商館長の護身用と思われるが、X線撮影により、弾倉に弾が込められた状態で廃棄されていたことがわかった。
 弾も、1836年に同人により発明されたピン・ファイア式薬莢で、薬莢をもつ初期のタイプのもの。雷管を強打するピンが外に突き出ているのが特徴で、この突き出たピンがカニの目のようにみえることから、幕末に日本に輸入された当時は「カニ目打ち」と呼ばれていた。外的な衝撃による火薬の暴発の危険性が高いため、後に使用されなくなる。

※参考:坂本龍馬が持っていた銃は
 高杉晋作から贈られ、「スミス&ウエッソン社製・第2型アーミー」と呼ばれる32口径の6連式ピストル。
 薩摩藩から妻おりょうと龍馬にそれぞれ贈られたといわれる「スミス&ウエッソン社製・第1型1/2ファースト・イッシュー」と呼ばれる22口径の5連式ピストル。
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2007年11月05日

出島の消失

出島の消失
 1859年(安政6)、218年間続いた出島のオランダ商館は廃止された。
 開国後の出島は、長崎を近代的な貿易都市に改良するため、西側の水門付近や南側が拡張されるなど、地形が大きく変わっていった。その後、周囲が埋め立てられ、さらに1885年(明治18)に起工した中島川変流工事では出島の北側が川幅拡張のため約18mが削り取られた。そして1904年(明治37)の第2期港湾改良工事で、扇形をした出島は完全に姿を消してしまった。
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2007年11月04日

出島オランダ商館長(カピタン)・クルティウス

最後の出島オランダ商館長(カピタン)・ドンケル・クルティウス
ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウス(1813〜1879)
 1852年(嘉永5)に商館長として着任。1855年(安政2)に駐日オランダ理事官(弁務官とも)を兼務。
 オランダ政府の命を受けたオランダ東インド総督が長崎奉行に提出する書簡を彼に託した。書簡には、米国の艦隊が日本に開国を求め来航することを予告、その前にオランダとの間に通商条約を締結することを勧告するといった内容であった。しかし、幕府は交渉を無視した。翌1853年(嘉永6)、米国のペリー艦隊が浦賀に来航、長崎にはロシア極東艦隊司令官プチャーチンが来航し、日本中が大混乱となる。こうして幕府は、1854年(安政元)に日米和親条約が締結、さらに、ロシア・イギリス・フランスなどと次々に条約が結ばれた。クルティウスもオランダ国を代表して、1855年(安政2)に日蘭和親条約の締結にいたった。これによりオランダ人は出島への拘束はなくなり、また日本人も自由に出島に出入りできることとなった。
 1858年(安政5)、クルティウスは長崎奉行と交渉し、踏み絵の廃止を実現するなど、開国後のオランダ最初の駐日外交官として日蘭間の交渉役を続けた。この交渉の過程で日本人へオランダ語を教授するかたわら、自ら日本語の研究も進め、1857年には日本語の文法書「日本文法稿本」を作成。また、日本初の有線式実用長距離電信実験に成功し、電信技術を日本にもたらした。
1859年(安政6)、218年続いた出島のオランダ商館は廃止され、領事館が設置された。さらに出島は、1866年(慶応2)に外国人居留地に編入された(編入は1862年(文久2)の説もある)
クルティウス1860年(万延元)に帰国。
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2007年11月01日

出島商館長(カピタン)・ブロンホフ

出島商館長(カピタン)・ヤン・コック・ブロンホフ(1779〜1853)
 在任期間(1817〜1821)
 1809年(文化6)、荷倉役として出島に着任したヤン・コック・ブロンホフは、1813年(文化10)まで商館長ドゥーフのもとで勤務。その後オランダに戻り、1817年(文化14)オランダ商館長として、夫人(チチア・ベルフスマ)や息子、乳母、召使いを連れて再び来日した。
 当時、出島では、商館長以下全員が単身赴任で、家族の同伴は認められていなかったが、
長崎奉行は「病気がちのブロンホフの看病のために妻子の同伴が必要である」と幕府に報告。しかし、妻子の滞在は認められず、夫人らは4ヶ月出島滞在後オランダへ強制送還された。
 しかし、ブロンホフ夫人の美しい姿は、長崎の画家(石崎融思、川原慶賀)たちの格好のモデルとされ、絵画や長崎版画や工芸品、そして長崎土産としても知られる古賀人形『紅毛婦人(こうもうふじん)』のモデルにもなった。
 ブロンホフは、2回の江戸参府をしており、その時のようすを「参府日記」に詳しく書いている。
 ブロンホフが荷倉役(1809〜1813年)として出島に滞在中、オランダ通詞の本木庄左衛門(正栄)、末永甚左衛門、馬場為八郎、西吉右衛門、吉雄忠次郎、馬場佐十郎に英語を教授している。これが、わが国の英語教育の始まりと言われている。
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2007年10月31日

出島商館長(カピタン)・ドゥーフ

ヘンドリック・ドゥーフ(1777〜1835)
 日本在任期間(1799年〜1817年)
ヘンドリック・ドゥーフ 出島オランダ商館長のなかで、ドゥーフほど日本人から信頼された商館長はいないといわれている。ドゥーフは1799年(寛政11)に出島商館の書記として来日し、1803年には出島商館長に就任。しかしオランダ東インド会社の解散、また当時の本国オランダはフランスの支配下にあった、オランダの混乱にともなって出島貿易も衰退、1809年から1817年までオランダ船の来航がなくなるという状況のなかで起きたイギリス船フェートン号事件(イギリスの軍艦がオランダ国旗を掲げて入港し職員を人質に交易を迫った事件)や、イギリスによる出島占領計画も起きた。彼の長崎滞在期間は数々の苦難の連続であった。だが、オランダの船が入って来ない毎日、彼は通詞と共に蘭仏辞典を元に蘭日辞典を編集、後の「蘭和辞典」に大きな影響を与えた。こういったいくつかの試練を乗り越え、出島オランダ商館を守り抜いたドゥーフは、オランダ政府だけではなく、江戸幕府からも大いに賞賛された。

日本で初めてつくったビール
 ナポレオン戦争で本国オランダからのビールの輸送が途絶え、ドゥーフは「故郷のビールが飲みたい」と、日本で手に入る原料を使って自家醸造に取り組み、1812年(文化9)頃完成した。原料には、大麦麦芽と小麦のほか、保存料の役割を果たすホップの代わりに中国から輸入した香料「丁子(ちょうじ)」を使用した。当時は3、4日程度しか持たなかったようだ。

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2007年10月30日

出島商館長(カピタン)・イサーク・ティチング

イサーク・ティチング(1745〜1812)
 出島オランダ商館長在任期間(1779/8〜1780/11)(1781/8〜1783/11)(1784/8〜1784/11)

 ティチングは、オランダに生まれ、はじめ医師を志したが中断し、1766年、オランダ東インド会社に入社。数年後、バタビアに派遣され、1779年(安永8)8月、長崎出島の商館長に任命されて日本に赴任した。翌年、恒例の江戸参府を果し、将軍家治に謁見したこの年、新任の商館長と交替して日本を去った。 しかし、その後1781〜1783年(天明元〜3)年と1784年(天明4)の計三度、出島商館長を勤めて通算3年8ヶ月日本に滞在。この間、日本関係のさまざまな資料を収集した。
 ヨーロッパに帰った彼は、フランス革命の余波を受けていた故国オランダをさけてロンドンに向かい、ついでパリに移住した。以後、1812年に病没するまで、東洋滞在時代の資料をもとに精力的な文筆活動を行った。帰国後の著書「日本の葬祭と行事」「日本風俗図誌」「日本図説」がある。
 1782年(天明2)、ティチングは寄合町筑後屋の太夫格遊女浮音を出島に呼び入れる。太夫格の出島入りは初めてで、その後、太夫格の遊女も出島に出入りするようになった。
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2007年10月29日

出島先学顕彰薬園碑所在標

出島先学顕彰薬園碑所在標
(表門横庭園内)
 この碑はシーボルトが建てた「ケンペル・ツュンベリー記念碑(10月16日記載)」に対して、シーボルト顕彰会が建立したもので、シーボルト来日250年を記念して1973年(昭和48)行われた。
 ケンペルやツュンベリーそしにシーボルトは、日本の植物に関して特に関心を持ち、その研究成果を広く海外に知らせ広めた。その研究の場がこの出島内の薬草園だった。
出島先学顕彰薬園碑所在標
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