2007年06月29日

長崎事始め・良林亭

 西洋料理店「良林亭」
 長崎で日本人による西洋料理店ができたのは文久3年(1863年)のことで、草野丈吉が開いた良林亭が最初である。
 草野丈吉は天保10年(1839)上長崎村伊良林郷次石、若宮神社前で生まれた。
 出島商館の出入り商人の一人増永文治の使用人として雇われるが、増永は、出島に居住していたオランダ人の使用人に丈吉を推挙する。その出島での丈吉の働きぶりには大いにみとめられ、やがて在オランダ公使のゼネラル・デヴィットの使用人となった。公使デヴィットは丈吉が西洋料理を研究したいという目的を知り、当時長崎に入港していたオランダ軍艦セロット号の調理師見習いとして推挙している。オランダ語を身につけ、横浜、函館と各地を廻り、めきめきと西洋料理の腕を上げた。
 薩摩藩士五代才助(友厚)にすすめられて、若宮稲荷下の生家を改造し西洋料理店「良林亭」をだす。藁葺きの6畳1間の小さな西洋料理店で、「…6人以上の御方様はお断り申上候」の張り紙が貼られていたという。屋号はのちに自遊亭、さらに自由亭と変え、しばらくして本大工町(現 魚の町)移転。明治11年(1878)馬町に洋館を建て営業。明治20年(1887)に廃業。
 その後、自由亭の建物は検事正官舎になるが、昭和48年(1973)長崎市が譲り受け、翌1974年グラバー園内に移築し復元、「西洋料理発祥の碑」が建てられている。
 五代才助(友厚)と草野丈吉の出会いは、後に五代が外国事務局判事・大阪府判事となったことにより草野丈吉の西洋料理の大阪進出へのきっかけとなっている。

※貼り紙の内容
料理代 御一人前金参朱 御用の方は前日に御沙汰願上げます。 但し六人以上の御方様はお断り申し上候。
一両=16朱で、料理代三朱といえば、一両の3/16である。一両を現在の7万円とすれば三朱は約1万3千円となる。
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2007年06月28日

長崎事始め・駱駝(らくだ)

駱駝(らくだ)
文政4年(1821)駱駝(らくだ) 駱駝は文政4年(1821)オランダ人によって、アラビア・メッカ産の一コブ駱駝雄5歳、雌4歳の二頭が長崎に上陸した。
 長崎奉行・間宮筑前守が西役所で見物。オランダ人は将軍家に献上するつもりであったが、江戸へ問合せるが公儀から献上「無用」との返答。駱駝は行き場を失い、カピタン(商館長)・ブロムホフは寄合町、引田屋の遊女糸萩へ贈るが、遊女糸萩は飼うことができず、阿蘭陀通詞中山作三郎の斡旋で大阪香具師(露店で興行・物売り・場所の割り振りなどをする人。俗に的屋(てきや)ともいう)に売却。
 それから西日本各地を巡業して、全国見せ物屋を巡業。西両国広小路では木戸銭32文で見せ物に。(1文=50円で換算して現在で1,600円の木戸銭)
 この駱駝は、とても仲が良く、駱駝使いが雌の手綱を引き進むと雄は雌にピッタリと寄り添う仲であったという。
 のちに、北国巡業中に寒さのため死亡する。
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2007年06月27日

長崎事始め・日本に初めて象が渡来

日本に初めて象が渡来
享保13年渡来象之図 国立国会図書館蔵 象が日本に初めて渡来したのは、応永15年(1408)足利義持の時代、2度目は天正3年(1575)織田信長の時代
 3度目に渡来した象は享保13年(1728)年6月7日、8代将軍徳川吉宗の時代。交趾国(今の南ベトナム)広南生まれの雄雌二頭のアジア象が、唐船によって長崎へ運ばれてきた。二頭のうち雌象5歳は長旅の疲れと、菓子の与え過ぎで、舌の上に「できもの」ができ長崎に着いて三ケ月後に死んでしまう。残された7歳の雄象は十善郷・唐人屋敷の庭で、日本の風土に慣れるようにと、9ケ月程飼育された。
 翌14年(1729)3月16日、将軍吉宗に献上のため14人の飼育係に見守られ長崎を出発。「献上もの」とあって、道中は取締りが厳しく、街道の小石を取り除き、橋を架け換え、ムシロを敷き、犬猫を出さぬようにふれ廻るやら、要所に水桶を置くやら、大変な騒ぎとなった。生まれて初めて見る「象」の道中に、沿道いたるところ見物人がひしめいたという。4月26日京都に到着。直ちに京都浄華院に収容され3日後、上覧には官位が必要なため、雄象には象広南従四位白象の官位が与えられ、中御門上皇の上覧があった。
 29日、京都出発、5月25日江戸到着(約70日)浜御殿の象舎に入った。27日、江戸城内に引き入れられ、将軍吉宗は諸大名とともに象を見物した。
 その後、象は浜御殿にて飼育されていたが、飼料代がかかり過ぎるため、寛保元年(1741)、中野村の源助という農民に払い下げられ、翌年病死(栄養失調)した。現在も馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)として、中野宝仙寺に牙の一部が遺されている。
 のちに文化13年(1816)11代将軍家斉の時代に、出島の商館長ヘンドリック・ドゥーフがまた将軍家へ象の献上を申し出たが、その儀に及ばずといって謝絶したという。

図:享保13年渡来象之図 国立国会図書館蔵
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2007年06月26日

長崎事始め・缶詰

日本で初めての缶詰
 日本で初めて缶詰を製造したのは長崎の松田雅典といわれている。雅典は長崎・酒屋町の長崎会所吟味役・馬田永成の二男として天保2年(1832)に生まれ、成人して松田家の婿養子となり、姓が松田に変わる。長崎会所に勤め、のちに外国語学校「広運館」に勤務した。仕事柄、外国人との接触が多く、日頃から外国製品に高い関心を寄せていた。
 そんなある日、フランス語教師のレオン・ジュリー(フランス人)が、本国から持ち込んだ牛肉の缶詰を食べている場面に遭遇。なぜ、何ヶ月も前にフランスから持って来た牛肉が食べられるのかとたいへん驚き、明治4年(1871)レオン・ジュリーからその製法指導を受け、イワシ油漬缶詰の製造を試作した。
 缶詰業の必要性を県令(知事)に説き、明治12年(1879)に炉粕町(現在の日銀長崎支店前)に日本最初の長崎県缶詰試験所を置く。
 しかし明治15年(1882)閉鎖。松田は明治17年(1884) 缶詰試験所の払下げを受け、自営にて松田缶詰製造所として立ち上げます。松田は明治28年(1895)に没し、その後、経営者も変わり明治29年(1896)には合名会社とし、明治30年(1897)夫婦川町に移転、日露戦争では軍需品として成果を上げますが閉鎖となります。
 松田雅典の墓所は皓臺寺にあります。
posted by 太鼓山 at 08:42| 長崎 🌁| 長崎事始め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月25日

長崎事始め・たばこ

たばこ

 たばこの種子が日本に伝えられ 栽培が始まった場所については、肥前長崎説、薩摩指宿説・平戸説など諸説がある。

【長崎】 春徳寺の下には「烟草(たばこ)初植地」の碑がある
 西川如見の「長崎夜話草」には南蛮人が種を持参し、長崎の桜馬場東土山で栽培されたとあり、慶長4年(1599)、現在の春徳寺のそばに薬草園があり、この地に(長崎村馬場郷・現在桜馬場)煙草が栽培されといわれている。
 桜馬場付近は葉たばこ栽培に適し、ここで誕生した葉たばこは、“長崎煙草”として盛名をはせ、幕末の頃、江戸や大阪では「長崎煙草」の看板を掲げた店もあったという。
 長崎遊女のあいだではキセルたばこが流行し、お客に一服勧めるのがエチケットであったとか?

 【長崎平戸】 平戸城の敷地内に「日本最初たばこ種子渡来之地」の碑がある。
 慶長6年(1601)6月29日、マニラから平戸港に入ったポルトガル船によってタバコの種子がこの地に伝えられ、8月に徳川家康に献上されたといわれる。

 伝来当初は痛止、血止めの薬用として用いられていたが、次第に喫煙の風習が広まり嗜好品(しこうひん)として流行しました。
posted by 太鼓山 at 08:20| 長崎 ☁| 長崎事始め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月24日

長崎事始め・じゃんけん けん玉

じゃんけん
 元禄年間(1688〜)に本拳あるいは長崎拳、崎陽拳、数拳などと呼ばれる拳遊び(お座敷遊び)が中国より長崎へ伝来し酒席で遊ばれた。

けん玉
 けん玉に先立って元禄年間(1688〜)には、じゃんけん(石拳)などの「拳」も中国から長崎に伝わっている。
 けん玉は、江戸時代中期にシルクロードを通って、唯一、外国に開かれていた長崎に入ってきたとされています。けん玉が入ってきたという安永6・7年(1777〜1778)頃は、「鹿の角に穴をあけた玉を結びつけた形」のけん玉でした。
 天保元年(1830年)喜多村信節(きたむらのぶよ)が書いた「嬉遊笑覧」(きゆうしょうらん)に、次のように書かれています。
「安永6,7年(1777年)の頃、けん玉というものできたり。猪口(ちょこ)の形して柄あるもの也 それに糸を付て先に玉を結たり 鹿角にて造る 其球を投て猪口の如きものゝ凹みにうけ、さかしまに返して細きかたにとヾむるなり もし、受けざる者に酒を飲ましむ。」
 つまり、始めに糸でつながった玉を引き上げて大きい方の皿にのせ、次に玉を投げあげてけん先をひっくり返し受けます、失敗したらお酒を飲まされたということです。
 はじめは、宴席での芸のひとつとされ、うまくできなかったものには酒を飲ませたりした大人の酒の席での遊び道具だったのです。
 酒の席の遊び道具として利用されていたけん玉が、子供の教育玩具となったの は明治9年に文部省発行の児童教育解説書に “盃および玉” という題で発表されてからです。
 今のけん玉のかたちは大正7年10月1日、広島県の江草濱次(えぐさはまじ)氏が日月ボールを発明したことによります。
posted by 太鼓山 at 08:56| 長崎 ☁| 長崎事始め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月23日

長崎事始め・ヨット

ヨット

 文久元年(1861)7月24日の英字新聞The Nagasaki Shipping List and Advertiser「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」の記事には、日本で最初のヨットが長崎で建造されたという記事がある。
 このヨットは、茶の貿易で財をなした英国人ウィリアム・ジョン・オルトの発注。下り松(大浦海岸)にあった英国アバディーン出身の船大工J・ミッチェルのアバディーン・ヤード(造船所)でヨット「ファントム号」が建造され、7月吉日の早朝進水式があった。
 この船「ファントム号」は、全長60フィート、最大幅14フィート、吃水6フィート、排水量36トンの大型スクーナー。
 オルトの妻、エリザベス・オルトの日本回想録に、夏の暑い夕暮れ、日が沈みかける頃、私たちはよく自分の六人漕ぎのボートで湾内の入り江をまわるなどしてピクニックを楽しんだ思い出が語られている。
 長崎港ではこの年、外国人たちのボートレース「長崎レガッタ」も催されている。

参考 1フィート=30.48cm
posted by 太鼓山 at 08:54| 長崎 🌁| 長崎事始め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月22日

長崎事始め・枇杷(びわ)

枇杷(びわ)
 
 天保・弘化(1830〜48)の頃、茂木村北浦字木場(現、長崎市北浦町)の三浦喜平次の妹三浦シオが唐通事の家へ女中奉公に出ていたとき、長崎来航の唐人から唐通事に贈られた唐枇杷を食べてみると、大粒で芳純な味だった。シオは、その種を持ち帰りその種子を畑にまいたのが「茂木枇杷」の始まりであるといわれています。
 その後、隣家の籠作り職人で甥の山口権之助が、弘化2年(1845)、この枇杷の枝をもらい受け接ぎ木し第2代をつくる。
 のちに山口権之助は三浦万次郎、三浦八十八らに接ぎ木の方法を教える。
明治維新前後、三浦八十八が接ぎ木をした枇杷が初めて長崎に出荷される。
 三浦シオが持ち帰った南中国生まれの枇杷が茂木の風土によく合い、先人たちの創意工夫により現在の大粒で甘い茂木枇杷に育っていった。
posted by 太鼓山 at 08:50| 長崎 ☁| 長崎事始め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月21日

長崎事始め・チョコレート

チョコレート
 イギリス人が固形のチョコレートを考案するまでは、チョコレートはコーヒーのように飲む飲み物を意味した。日本にチョコレートがもたらされたのは、江戸時代のことです。
 チョコレートに関する記述は、寛政9年(1797年)3月の項、長崎の遊女が長崎出島のオランダ人から貰った物を記した『寄合町諸事書上控帳』の中に「ショクラアト」として登場するのが最初である。そのなかに長崎丸山・筑後屋平右衛門の届出に、同人抱遊女大和路の貰い品として「ショクラアト 六ツ」と記載されています。
 同じ年に書かれた京都の蘭学者・広川獬(ひろかわ かい)『長崎聞見録』には、「しょくらと」をお湯の中に削って入れ、卵と砂糖を加えて茶筅で泡立てて飲むと記されています。
 広く街中に流通したわけではなく、当時は出島に出入りした役人、阿蘭陀通詞や出島に呼ばれた遊女しか、チョコレートの味を知らなったようである。このときは日本でも薬用としても用いられていたようです。

※ 参考 「長崎聞見録」巻之五
しよくらとを
 九州大学総合研究博物館
posted by 太鼓山 at 08:55| 長崎 ☁| 長崎事始め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月20日

長崎事始め インゲン豆

長崎事始め インゲン豆
黄檗宗の宗祖・隠元隆?g (いんげんりゅうき) 禅師
 地方によってはササゲ、フジマメとも呼ばれる日常的な野菜、インゲン豆は、もともと日本にあったわけではありません。 最初に日本に渡来したのは江戸時代。
 明国(中国)福建省の僧侶で、日本における黄檗宗の宗祖・隠元隆?g (いんげんりゅうき) 禅師が、承応3年(1654)、長崎に来た際に豆を持ち込んだのがはじめで、その豆は東明山・興福寺(こうふくじ)長崎市寺町に植えられ、隠元禅師の名前をつけて「インゲン豆」と呼ばれ、やがて日本国内に広まりました。

 現在4月3日は、「インゲンの日」と呼ばれていますが、これは隠元禅師の亡くなられた日(寛文13年(1673)04月03日没)を「インゲン豆」振興の記念日として、関係業界が定めたものです。

隠元禅師が伝えたもの
 黄檗普茶料理(ふちゃりょうり)、胡麻豆腐、胡麻あえ、けんちん汁、西瓜、なし、蓮根、なすび、もやしなどの野菜果物、それから印鑑、木魚、ダイニングテーブルなどなど
posted by 太鼓山 at 08:44| 長崎 ☀| 長崎事始め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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