2007年07月10日

長崎事始め・長崎金星観測

長崎金星観測
 1874年(明治7)12月9日、金星の太陽面経過を観測するのに日本が好条件であったためフランス、アメリカ、メキシコなどの観測隊が日本を訪れ、横浜、東京、神戸、長崎などで観測が行われた。
 長崎では、フランス科学院長の天文学者ジャンサン氏の一行6名が来た。金比羅山での観測は成功した。記念として跡地に石碑が建てられた。高さ2メートル余りのピラミッド形。4面に仏文と和文の字を刻む。
 仏文の碑文は「惑星、金星通過を観測したのはこの位置においてである。1874年12月9日フランス天文学者ジャンサン科学院総裁」と刻んである。
 (アメリカのダビットソン氏一行は、長崎の大平山(現・星取山)で観測している)

長崎金星観測碑・観測台 県指定史跡
指定年月日:昭和35年7月13日
所 在 地:長崎市西山町2−252(金比羅山)
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2007年07月09日

長崎事始め:ド・ロ神父とそうめん

ド・ロ神父とそうめん
 明治12年(1879)、フランス人宣教師マルコ・マリ・ド・ロ神父は外海町出津の里に主任司祭として赴任し、村民の窮状を救うため,私財を投じて数多くの事業(社会福祉・土木・建築・医療・教育文化などに奉仕)をおこなった。まず手をつけたのは現在に言う福祉事業である。すぐ授産場を設け、織物、染色などの技術を教えた。明治16年(1883)には旧庄屋屋敷を買って救助院(後の旧出津救助院/国指定重要文化財)を建て、1階をそうめん、パン、マカロニなどの工場にし、修道女や貧しい婦女子に、生活を向上させ、自力で生きていく道を開いてやろうと「そうめん」の製法を伝えた。そうめんの小麦粉は、ド・ロ神父の故国フランスから種子を取り寄せて栽培、川に水車小屋を造り製粉した。地元で栽培した落花生から落花生油を採り、これを平延べ用の引き油に使用する独特のそうめん製法で、こしがあり美味しいそうめんである。3人の修道女の頭文字シ・フ・キをとった「至風木舎そうめん」は、やがて「ド・ロさまそうめん」の名で親しまれるようになった。
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2007年07月08日

長崎事始め・ペーロン

長崎ペーロンの由来
 ペーロンは「白龍」の中国音の「パイロン」がなまったのが語源といわれております。
 1655年(明暦元)、その当時数隻の唐船が長崎港に停泊中、暴風雨に襲われ難破し、多くの溺死者を出し出航できなくなったので、在留の唐人たちが海神の怒りを鎮め風波を静めるためと、自国の遊戯を長崎人に誇示するために艀(はしけ)を借り集めて、長崎港で競漕したことが始まりと云われています。
 往時、旧暦5月端午の節句に行われていましたが、競漕に熱中する余り、1800年(寛政12)喧嘩沙汰を引き起し死者まで出たため、翌年、長崎奉行は禁止令を出した。それでも長崎人はペーロンが大好きで、大漁祈願・龍神まつり、「足あらい」と称して田植えが終わった後に行っていた。現在は6月初めから8月中旬頃まで各地、各町内で実施されており、7月最終日曜には長崎ペーロン選手権大会が長崎港で行われます。
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2007年07月07日

長崎事始め・キョウチクトウ(夾竹桃)

キョウチクトウ(夾竹桃)
 キョウチクトウはインド原産で、中国を経て享保年間(1716〜1735)に長崎へ移入されたという。常緑低木もしくは常緑小高木であり、葉が竹に似ていること、花が桃に似ていることから「夾竹桃」の名が中国で名付けられ、それが、日本でもそのまま使われている。
 枝、葉、花は強心薬、利尿薬に用いるが、毒性が強いため、素人が処方する行為は好ましくない。毒性で、家畜がキョウチクトウを食べることで中毒症がでる。また、木を串焼きの串に、枝を箸代わりにして用い死者が出た例がある。
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2007年07月06日

長崎事始め・ジャガイモ

ジャガイモ
 ジャガイモの渡来については、1576年(天正4)ポルトガル人が長崎にもたらしたという説や、1598年(慶長3)ジャガタラ(ジャカルタ)から南蛮船が長崎に運んできたのに始まるという説がある。「ジャガタラからは慶長6年」とする説もあるが、どの説にしても渡来地はやはり長崎である。別名「ジャガタライモ」または「オランダイモ」ともいう。
 食用に栽培されるのは、長崎では寛永(1624〜)のころからといわれる。
 別名、馬鈴薯(ばれいしょ)とは、中国ではマメ科の「ホドイモ」を指すのですが、1808年(文化5)に学者の小野蘭山(1729〜1820)が、「馬鈴薯がじゃがいもである」と誤って解説してから、じゃがいものことを馬鈴薯と呼ぶようになりました。今では、一般的にはじゃがいもと呼ばれていますが、学会や行政上では馬鈴薯(ばれいしょ)という呼び名が用いられています。
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2007年07月05日

長崎事始め・ナンキンハゼ

ナンキンハゼ 
ナンキンハゼ ナンキンハゼは「南京黄櫨」と書き、中国原産のトウダイグサ(灯台草)科の落葉樹で中国では蝋(ろう)や油をとるため広く植えられている。
 江戸時代1708年(宝永5)頃に長崎に伝わり長崎から全国に伝わったといわれる。夏には緑色の美しい葉と枝先に長い穂状の黄色い花序が形成される。秋には赤、黄、紫が混じった奥行きのある紅葉を見せます。落葉した後は白い種子だけが枝に残る。種子から蝋(ろう) 、葉から染料を取り、材は家具などに使われます。青い実は粘り気があり、鳥黐(とりもち)を採ったりしました。果皮は「烏臼(うきゅう)」といわれ,利尿剤に用いられます。
 1935年(昭和10)頃に、大浦に街路樹として植えられた。これが、ナンキンハゼを街路樹に使った最初と見られている。
 1975年(昭和50)中国と関係の深いこの木を「ながさきの木」に指定、長崎市の街路樹として多く植えられています。
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2007年07月03日

長崎事始め・ちゃんぽん

ちゃんぽん
 ちゃんぽんは、中国の影響を受け、長崎市を発祥とする庶民の味の郷土料理です。
 豚肉、魚介類、野菜、モヤシ、旬の物など沢山の具を炒め、豚骨、鶏ガラで取った、または両方を合わせたスープを加えて味を調える、そこにちゃんぽん麺を入れ再度味を整え、器に盛る。太い麺と具材の多さが特徴の中国料理です。
ちゃんぽんの語源
 中国では、ご飯を食べることを標準の中国語で「ツーファン=吃飯」というが、福建省の方言では「シャーポン」とか「セーポン」と発音する。この方言がなまったとする説。ポルトガル語の「チャンポン(混ぜる・混合する)」がなまったもの。など、諸説がある。
ちゃんぽんの由来
「明治初年、長崎人である本吉某が、丸山にて支那うどんを[ちゃんぽん]と名付けて開業したもので、ついにちゃんぽんは支那うどんの固有名詞となった」と文献に残されている。
 明治32年(1899)に、現存する中華料理店「四海楼」の初代店主陳平順が当時日本に訪れていた大勢の中国留学生(当時は清国人)たちに、安くて栄養価の高い食事を食べさせる為に考案したとされる料理を、ちゃんぽんと名付けたとも言われている。
このように「ちゃんぽん」には語源、由来にも諸説あります。
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2007年07月02日

長崎事始め・トマト

トマト
狩野探幽の「唐なすび」 トマトは当初は果物扱いで唐柿(ヨーロッパから中国経由で伝来)とも蕃柿(南方から渡来)とも呼ばれた。後にナス科名で赤茄子(なす)、蕃茄、オランダ茄子(なすび)などと呼ばれる。
 トマトが日本に渡来したのは、江戸時代の寛文年間の1670年頃に長崎に伝わったのが最初とされる。文献での古い記録としては、江戸前期の儒学者・貝原益軒の「大和本草」(1708年)で、「唐柿」の名で紹介されています。他にも寛文8年(1668)、徳川四代将軍・家綱のおかかえ絵師・狩野探幽が「唐なすび」と呼び、スケッチした絵が残っています。初め薬用か観賞用であった。日本で食用野菜として利用されるようになったのは明治以降で、さらに日本人の味覚にあった品種の育成が盛んになったのは昭和に入ってからである。
 長崎市中川郷にあった長崎県農事試験場で明治33年(1900)にトマトの品種比較試験をしている。
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2007年07月01日

長崎事始め・石造日時計

石造日時計・(出島オランダ商館跡)
石造日時計(出島オランダ商館跡)
 日時計は、日光によってできる日影棒(ノーモン)の影を使って時刻を知るもので、地球の自転のため太陽は地軸のまわりを1時間に15度の角速度でめぐって影を落とすので、棒の落とす影は時計の針と同じように1時間15度の角度で移動し時刻を示す。
 出島オランダ商館跡の庭園に、わが国初の石造日時計(複製)が展示してある。大きな基盤を思わせる長方形の石には、放射状の目盛りをいくつも刻み、日影棒が付けられてある。
 この日時計は、明和3〜4年(1766〜1767)に滞在した商館長ヘルマン・クリスチャン・カステンス(Herman Chrican Kastans)が備え付けたもので、「出島蘭館日蘭貿易図」(1764〜1780)の中の花畑に描かれている。石の前面に刻む「H・C・K」はこの商館長のイニシャルである。
 この石造り日時計は、日光の影により朝6時から夕方6時まで計ることができる。真ん中の南北を示す線が12時です。現在では、明石市を通る東経135度が日本の標準子午線とされています。長崎市は明石市より西にあるため、日時計で時間を計ると、実際より遅れた時間になります。また、地球の自転が楕円軌道であるため、季節により時刻のずれが生じます。
 この日時計は、実用にしていたのかどうかはわからない。この時代には商館長等は時計を持っていた時代である。
※写真の日影棒の影は、午後2時10分の位置です。私の時計と合っていました。
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2007年06月30日

長崎事始め・わが国の近代的新聞の第一号

わが国の近代的新聞の第一号
 文久元年(1861)5月15日、英国人A・W・ハンサード(Albert W・Hansard)が長崎・大浦居留地で我が国初の英字新聞を創刊した。「The Nagasaki Shipping List and Advertiser(ナガサキ・ショピング・リスト・アンド・アドバタイザー)」は、わが国初の英字新聞であるばかりでなく、英字、邦字紙を含めて日本の近代的新聞の先駆けとなった。
 毎週水曜日4ページ、土曜日2ページで週2回朝発行タブロイド判。内容は外国商社の広告、各国公館の公示・公報、絹や茶の市場価格、わずかに海外情報や長崎のローカルニュースなどが掲載された。通常は、第一面のすべてが主に上海の企業をスポンサーとした広告。最終面の船舶案内は日付・船名・トン数・船長名・出港地(仕向け港)・積荷・荷主など詳細を極める。
 ハンザードは印刷機を上海から輸入。近代活字印刷の先駆者本木昌造門下の青年(平野富二・陽其二・谷口黙次・茂中貞次)たちに編集や制作、印刷等の協力を求めた。
 ハンサードは文久1年(1861)8月2日、28号まで発行(廃刊)したあと、同年10月21日横浜に移り週刊新聞「The Japan Herald(ジャパン・ヘラルド)」を創刊した。

ナガサキ・ショピング・リスト・アンド・アドバタイザー廃刊のあと長崎での英字新聞は、
長崎タイムズやその後継の英字紙が発行された。
明治3年(1870)1月15日、ポルトガル人F・ブラガが大浦居留地で長崎エクスプレスを創刊。明治6年(1873)にライジングサン・アンド・エクスプレスと改題。
明治11年(1878)1月15日キューシュー・タイムと改題
明治30年(1897)9月6日ナガサキ・プレス買収
昭和4年(1929)8月ナガサキ・プレス廃刊
posted by 太鼓山 at 08:02| 長崎 ☁| 長崎事始め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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