2007年07月24日

長崎事始め

伊王島灯台職員の宿舎「吏員退息所」
 伊王島灯台に近い崖地には、灯台職員の宿舎「吏員退息所」(県指定有形文化財・昭和57年指定)が造られている。1877年(明治10)7月、伊王島灯台と同じく英国人主席技師R・H・ブラントンの設計で、伊王島の大工大渡伊勢吉により建築。
 これは、「明治初期の典型的な洋風住宅だが、わが国初の輸入セメントを使った無筋コンクリート造りであり、建築学上きわめて貴重な文化遺産」といわれる。
 1984年(昭和59)から復元工事が行われ、いまは1988年(昭和63)に伊王島灯台記念館として開館され、伊王島灯台等の歴史を紹介している。
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2007年07月23日

長崎事始め・灯台

灯台、燈台(とうだい)
 1866年(慶応2)5月に江戸幕府がアメリカ、イギリス、フランス、オランダ4カ国と結んだ江戸条約で、全国8カ所に灯台を整備することが定められた。これに基づく条約第11条に「日本政府は外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため灯明台浮木瀬印木等を備ふべし」と灯明台規定がある、この江戸条約がわが国の公式灯台の始まりです。最初にできたのは東京湾口の観音埼灯台(初点灯1869年)。
 長崎港外の伊王島灯台は1867年(慶応3)着工・1870年(明治3)伊王島灯台完成、点灯開始(仮点灯)・1871年(明治4)我が国初の鉄造り六角形灯台が本点灯。明治新政府の「お雇い外国人」である英人リチャード・ヘンリー・ブラントンやレオンス・ヴェルニーなどの設計・施工による。
 この灯台は、1945年(昭和20)の原爆による爆風で鉄板の接合部が破損したこともあって老朽化し、1954年(昭和29)いまの白色四角形コンクリート造りに改造された。1971年(昭和46)には長崎航路標識事務所が発足し灯台は無人化された。
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2007年07月21日

長崎事始め・ちゃんこ鍋

ちゃんこ鍋(ちゃんこなべ)
 ちゃんこ鍋とは、主に大相撲の力士が食べる鍋料理です。「ちゃんこ」とは本来、相撲力士の食事そのものの事を指す。
 季節の魚や野菜、肉などいろいろな食材をたっぷり煮込み、栄養バランスが良く、相撲部屋ごとに色々な工夫と味付けの違いがあるようです。
 「ちゃんこ」の語源には諸説様々な話があり、現在でも特定されていません。
 中国の鍋説。江戸時代に長崎にやって来た中国人が唐人屋敷で鉄製の大きな中華鍋【鐘鍋(チァングオ)】を使い鍋料理を作っていた。長崎に巡業で来ていた力士が、この大きい中華鍋チァングオで料理を作り、手軽でボリュームもあり、さらに煮込むので伝染病などの心配がいらない等で、この料理法を持ち帰ったのが、後に「チァングオ」が訛って「ちゃんこ」と呼んだとされる。それが定着し、その鍋の名前から「相撲力士が食べる食事」そのものを「ちゃんこ」と呼ぶようになったといわれています。
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2007年07月20日

長崎事始め

長崎事始め・相撲
 梅園身代り天満宮(長崎市丸山町) 1700年(元禄13)創建。この場所は長崎奉行の許しを受け梅園天満宮大祭では芝居や見世物などが行われるようになり、合わせて相撲の興行が行われた。相撲興行が頻繁に行われるようになると付近には力士や相撲関係者などが滞在する宿屋が作られた。
 1749年(寛延2)10月の梅園天満宮大祭には第3代横綱:丸山権太左衛門(まるやま ごんだざえもん)と木村庄之助一行、1802年(享和2)には大関の雷電為右衛門(らいでん ためえもん)一行が大相撲興行を行っています。
 丸山権太左衛門(1713年(正徳3)〜1749年(寛延2))は宮城県登米市米山町中津山出身で、1749年(寛延2)10月に梅園天満宮で巡業中、病に倒れ11月14日36才で死去、寺町の晧台寺で葬儀が行われた。墓所は本河内町にあります。
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2007年07月19日

長崎事始め・写真機

写真機
上野彦馬写真機 写真機を日本に初めてもたらしたのは、長崎の絵師であるとともに長崎奉行所の御用時計師で、蘭学者でもあった上野俊之丞で、フランスのダゲールが発明したダゲレオタイプ(銀板写真機)を1848年(嘉永元)オランダ船で輸入した。後に、このカメラは、薩摩藩の手に渡り、1857年(安政4)9月17日、薩摩藩藩主島津斉彬みずからを藩士に写させる。日本人が日本人を撮って成功した唯一の銀板写真です。
 俊之丞の四男彦馬〔1838年(天保9)〜1904年(明治37)〕は1858年(安政5)にはオランダ医官ポンペの塾「舎密(せいみ)試験所」に入り、舎密学(化学)を学んだ。蘭書から湿板写真術を知り大いに写真術に関心を持ち、1859年(安政6)来日したフランス人写真家ロッシェから写真術を学ぶ。
 塾で知り合った伊勢(三重県)藤堂藩の堀江鍬次郎とともに共同研究を始める。感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。その後、堀江鍬次郎と江戸に出て数々の写真を撮影し、人々を驚かせる。
 1862年(文久2)、長崎に戻り、中島川畔で「上野撮影局」を開業。これは日本における最初期の写真館であり、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。
 「上野撮影局」では、坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士の肖像写真も撮影している。また、1877年(明治10)西南の役が起こると戦場の撮影をし、わが国の報道写真としては第一号となる。
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2007年07月18日

長崎事始め・青貝細工

螺鈿(らでん)・青貝細工
青貝細工机(長崎歴史文化博物館所蔵) 長崎の螺鈿細工は別に長崎青貝細工とも呼ばれ、真珠光沢を持つアワビ、ヤコウガイ、チョウガイなどを薄く研ぎだし貝殻を文様に切って裏面に線描きや彩色を施すなどした後に、錆仕上げの漆器の上に膠(にかわ)で貼り付け漆で塗り込め、何層にも上塗を行った後、木炭などで一面を研ぎ出して磨き仕上げる。一般に薄貝を用いたものを青貝といい、厚貝を用いたものを螺鈿という。
(貝殻の内側の七色に輝く真珠層を磨いて使うので、内側を使う場合と外側の皮を研ぎだして使う場合がある。)
 この技術は17世紀前半期に中国から伝えられ、その技術を受け継いだ者に長崎の漆工生島藤七や長兵衛の名が古書に挙げられている。しかしこれらの製品が長崎で多量に製作されるようになったのは、詳細には分からないが1720年(享保5)に書かれた『長崎夜話草』で、塗物道具のなかに「青貝」の文字があることからすると、18世紀前半期にはすでに広く製作されていたことを知ることができる。

文様の作り方:小刀や針先で切り抜く方法、模様の形に作った鏨(たがね)で打ち抜く方法、および稀塩酸を塗って模様以外の部分を腐蝕させる方法があります。
厚 貝:螺鈿細工に用いる貝で、その厚さは百枚重ねた厚さが4寸(132mm)程度です。
薄 貝:青貝細工に用いる貝で、その厚さは百枚重ねた厚さが二分五厘(8.25mm)程度です。一枚あたりの厚さは(0.08mm)程度である。
:砥の粉(とのこ)を水で練って粘土状にしたものを、生漆に混合させたもので、単に錆ともいいます。これを下地に用いたものを錆地といい、これで描いた絵を錆絵といいます。

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2007年07月17日

長崎事始め・一口香

一口香(いっこっこう)
一○香 中身が空洞になっている丸い菓子で、小麦粉で出来た皮に黒砂糖、蜂蜜、水飴などを混ぜた餡を詰めて、天火で焼き上げると皮が膨張して中身が空洞になり、これを割ると餡が内面にだけに付いているという、初めて食べる人は大変驚く珍しいお菓子です。
 一口食べると香ばしい味わいから、「一口香」名付けられたと言われる。この一口香は、江戸時代、濃霧のために中国船が間違って、長崎茂木港に入港してきた時、中国船の保存食であった唐饅(とうまん)をもらい、その製法を学んだ。その後、改良を加え出来たお菓子が「一口香」だそうです。長崎ではカステラと共に知られる銘菓になっています。
 長崎市茂木が発祥の地で、創業1844年(弘化元)という老舗が茂木にあります。こちらの老舗では「一○香」(いちまるこう)の商標で販売しています。
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2007年07月13日

長崎事始め・コンニャク煉瓦

コンニャク煉瓦
 コンニャク煉瓦とは、明治維新前後の一時期に長崎で生産された煉瓦で、現在の普通煉瓦に比べて薄くて長い扁平な形で、コンニャクに似ていたので「コンニャク煉瓦」と呼ばれました。厚みを薄くしたのは当時、焼成温度が高くできなかったためであると言われています。長崎製鉄所建設技術者のハルデス(H.Hardes)の指導によって焼成されたレンガであったことから「ハルデス煉瓦」とも呼ばれた。
 長崎でコンニャク煉瓦が見られる処
グラバー園・グラバー邸(台所・馬小屋前花壇の縁石)、小菅修船場(巻上げ機小屋)、国際海底電線小ヶ倉陸揚庫、大浦天主堂内旧羅典神学校、聖福寺(惜字亭・経文など寺内の不要文書類の焼却炉)、佐藤家住宅石造倉庫(長崎市西泊町66)、高島(煉瓦の擁壁)など
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2007年07月12日

長崎事始め・有平糖

有平糖(アルヘイトウ)
 有平糖はポルトガル語のアルフェロア(砂糖菓子)のことで、カステラなどとともに、南蛮人の渡来で長崎を中心に伝えられた南蛮菓子の一つ。砂糖に水あめを加えて煮詰め、冷やして丸状、板状、棒状とし、ねじった形や動物の形または花や果実に模した形に加工した装飾菓子です。「長崎くんち」の庭見せや結婚式、祝いや仏事、茶の湯には欠かせないものになっています。
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2007年07月11日

長崎事始め・国際電信海底ケーブル

国際電信海底ケーブル
 1869年(明治2)デンマークの大北電信会社はロシア政府から大阪、横浜、長崎、上海、福州、香港への海底ケーブル敷設権を取得。
 明治政府は1870年(明治3)8月に上海〜長崎間及びウラジオストック〜長崎間の海底ケーブルを長崎に陸揚げすること、並びに長崎〜横浜間に海底を敷設することを大北電信会社に許可した。同年、大浦のベルビューホテル(現在の長崎全日空ホテル・グラバーヒルあたり)の一室に大北電信会社長崎支局を設け、長崎における拠点とします。同社はケーブル線の陸揚げ地を小ケ倉の千本松原海岸と定め、国際海底電線小ヶ倉陸揚げ庫(中継所)を設置、工事に着手。
 翌1871年(明治4)に長崎〜上海間および長崎〜ウラジオストク間を結ぶ海底電信線敷設を完了、その線を地上に引き上げた場所が、先に記した小ヶ倉陸揚げ庫。この場所から地上線で外国人居留地の近くのベルビューホテルを結び、電信通信を開始した。これが、わが国における国際電信の始まりです。
 1873年(明治6)2月、東京〜長崎間の陸上電信線が開通する。
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