2013年03月15日

はたの歴史

はた
 長崎では「紙鳶(しえん)」または「凧(たこ)」のことを「はた」といいます。
 「はた」は他地方では正月のものだが長崎では3月から4月の初め頃(天候しだいで月末頃)までの行事となっています。
はたの歴史
 永禄から元亀開港の1500年代半ば過ぎ頃から長崎の子供たちは、「はた」をあげていたという(市史)。種類や大きさは記載されていないが、長崎独特の、「あごばた」ではないかと思われます。
 長崎の「あごばた」は、当時、出島にいたインドネシア人たち、つまり、南方系の「はた」がつたわったものだろう。
 長崎では、南方系の「長崎のぼり(長崎ばた、あごばた)」と中国伝来の「風筝(ばらもん)」「蝶ばた」「百足ばた」などの中国系の「はた」の数種が長崎直接、或いは平戸、五島経由でもたらされて上げられていたのかも知れない。つまり、中国系と南方系の「はた」が長崎の空で仲良く舞い踊っていたわけであります。
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2010年01月05日

長崎・延命寺の金山寺味噌

長崎・延命寺の金山寺味噌
 江戸期、長崎での正月の四日は市中の寺社が奉行所に年頭の礼をする行事があり、これがすむと寺社は檀家、俗縁の家にお守り札とか納豆を曲物に詰めて配っていた。
 寺町の延命寺では、僧たちが金山寺味噌を曲物に入れ配っていたという。延命寺の金山寺味噌は中国の金山寺伝来の製法による珍味として有名であった。
『長崎歳時記』によると「古へより延命寺の僧徒、金山寺味噌といふを曲物(まげもの)につめて檀家へ配る、其の製法唐土の金山寺より伝へたるよし、家々これを得て珍味とす」とある。
  
※ 曲物とは「ヒノキ」や「スキ」の薄板を、特殊な技法で円形・楕円形などに曲げて底をつけた容器の総称。
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2008年01月19日

西山神社・椎の木の水

椎の木の水(しいのきのみず)
西山神社(妙見宮)境内:西山本町8-18
sinokimizu.jpg 西山神社の手水舎に流れてきている水は、「椎の木の水」と伝われ長崎の名水の一つとして昔は酒造りなどにも使われ、今でもお茶に使われている。また、江戸時代の1810年(文化7)この椎の木の水は立山にある長崎奉行所に引かれていたこともあり、これは長崎の水道の始まりともいえる。さらに、1982年(昭和57)長崎水害の際、この一帯が断水したとき多くの市民がこの椎の木の水に集まり、この恵みに感謝しました。

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2007年08月01日

長崎事始め・飾りそうめん

地蔵祭りの飾りそうめん
 長崎市飯香浦(いかのうら)町・太田尾(おおたお)町で毎年7月に行われる地蔵祭りの飾りそうめんの技術は江戸中期頃より開始されたといわれる。
 飯香浦地蔵(いかのうらじぞう)に祭られる飾りそうめんは、鎧兜と幔幕(まんまく)一対を制作すらが、幔幕は一本の棒にリリアン編みの洋式で編み上げる。鎧兜は木と紙による枠に上下に分けて生そうめんと元結い(もとゆい)を使用して編み上げていく。
 太田尾の地蔵飾りそうめんは女形と男形の人形で、紙と木でできた枠に金と銀の紙を各1枚はり、その上に人形を編みこんでいく。どちらも外気を遮断して生そうめんを編み上げて作られます。複雑な工程で、所要時間はおよそ3時間で、そうめんが乾燥する前に早く編み上げなければなりません。
 出来上がりは、組紐細工のような見事な造形。とてもそうめんには見えません。小麦やそうめんの生産地でもない地域で、ここまで複雑な飾りそうめんは全国的にも珍しく、また江戸時代中期頃から伝承されたその技は、長崎市の無形民族文化財(昭和50年6月26日)に指定されています。
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2007年07月31日

長崎事始め・明清楽

明清楽(みんしんがく)
 明清楽とは,明朝の音楽と清朝の音楽という意味である。
 明和年間(1764年〜1772年)に最盛期を迎えた明楽は、長崎に来航してきた清朝の人達によって伝えられた清楽(しんがく)の流行に押されて江戸時代の中期には衰退した。その一部は清楽に取り入れられた。清楽と合わせて明清楽と呼ばれることも多いが、「明清楽」という呼称は、事実上清楽だけを指すことが多い。
 清楽は明治中期頃までは流行していたが,日清戦争をさかいに急速に衰えた。唐琵琶,月琴,明笛,胡琴,片鼓(はんこ)等の楽器が使用されている。現在伝承されている曲目は,算命曲, 九連環,櫓歌,茉梨花,平板調,西皮調,金銭花,紗窓,獅子(この曲は明楽?)である。江戸末期からの明清楽奏者家元、平井連山(女性・明治19年5月に88歳で没)などが有名であった。
 坂本龍馬とその妻の「おりょう」も、清楽の月琴の名手であった。
 昭和53年8月22日に「長崎の明清楽」として県指定無形文化財の指定
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2007年07月29日

長崎事始め・長崎と鯨

長崎と鯨
 長崎と鯨との歴史は古く、壱岐の原の辻遺跡から弥生時代の壷に捕鯨を行っている様子が描かれた線刻土器が平成12年に出土したことで、捕鯨の歴史は古代までさかのぼることになる。また長崎県は、江戸時代から明治にかけて捕鯨業が大きく発展した歴史があります。五島や壱岐、対馬、平戸、生月島といった島の浦々で、捕鯨に携わる鯨組(くじらぐみ)と呼ばれる組織がいくつも生まれています。鯨組の組織は、海で鯨を捕獲する「沖場」と、陸で漁の準備や鯨の解体加工をする「納屋場」の2つに分かれ、ひとつの鯨組で約九百人を必要としたほど大規模な組織だったそうです。
 長崎市における近代捕鯨の歴史は、1897年(明治30)長崎市在住の英国人貿易商ホーム・リンガーらが英・露人組合を結成し、翌年11月に捕鯨船オルガ号で捕鯨を行ったのを始めとし、1898年(明治31) 長崎市稲佐町の松森栄三郎。1900年(明治33)山野辺左右吉。1903年(明治36) 山野辺は林包明、原信一、吉田増太郎らと組合をつくり、五島近海等で捕鯨を行っておりました。
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2007年07月28日

長崎事始め・クローバー

クローバー(シロツメクサ
 日本人の私たちにとってクローバーはとても身近な植物ですが、実は、オランダ船が運んできた渡来種です。
 クローバーはオランダ船がガラス製品を長崎出島に運ぶ際、 輸送時の衝撃から守るため緩衝材として乾燥したクローバーが入れられていた。その中の種が芽生え日本で繁殖したとされる。和名が「シロツメクサ(白詰草)」というのは、輸送時の緩衝材として詰めてこられたのに由来するとのこと。
  江戸時代にはるばる日本に渡って来たクローバーの原産はヨーロッパで、そこでは四葉は十字架を表し、幸運をもたらすと言われています。三葉はキリスト教の三位一体(父なる神・キリスト・聖霊)の象徴とされるなど、とても神聖なものとされているようです。 ちなみに、五つ葉は金銭上の幸運、六つ葉は地位・名声の幸運、七つ葉は最大の幸運を意味します。幸運が来るよう色んな形のクローバーを探してみてください。
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2007年07月27日

長崎事始め・牛痘

牛痘
 1823年(文政6)来日した医師シ−ボルトは人痘種痘の実技を紹介したが、彼が試みた接種はうまくいかなかった。
 1848年(嘉永元)日本にオットー・モーニッケが出島商館医として来日。来日に際して持参した牛痘は失活し、牛痘の植え継ぎは不成功であった。翌年1849年(嘉永2)6月、バタビアのボッシュ医事局長が自分の息子に牛痘を植え、生じた牛痘痂(かさぶた)をオランダ船に大切に積みこみ長崎に送った。
 鍋島藩の楢林宗建は自分の三男と通詞の子二人の幼児を実験台として出島に送り、モーニッケは3児に接種したところ宗建の三男建三郎にのみ美痘が生じた。この痘漿から3児に伝種した。以後これを種として次々と種痘が行われた。
 1849年(嘉永2)7月、楢林宋建と相談し江戸町の阿蘭陀通詞会所に伝習所兼種痘所がおかれる。モーニッケは吉雄圭斎、柴田方庵に実地指導。同年末までに391人に接種し成功した。
posted by 太鼓山 at 08:28| 長崎 ☀| 長崎事始め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月26日

長崎事始め・補聴器(耳鏡)

補聴器(耳鏡
補聴器(耳鏡) 司馬江漢はボイスの百科辞典掲載の図版を参考に補聴器を製作し、眼鏡に対する「耳鏡」という言葉を使って、視力の低下した人が眼鏡を用いるように、耳の聞こえにくい人にはこの器具を用いるようにと説明しています。□の部分を耳の穴に差し込んで聞くと、ラッパ型により集音効果が得られ、また、音源に向けることによって音をはっきり聞くことができます。
写真は出島に展示。

司馬江漢作のラッパ型補聴器「耳鏡」引札
司馬江漢作のラッパ型補聴器「耳鏡」引札(今日でいうチラシ広告)
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2007年07月25日

長崎事始め・聴診器(聴胸器)

聴診器(聴胸器)
聴診器(聴胸器) ドイツのストラールズンド生まれのオランダ軍医オットー・モーニッケが1848年(嘉永元)出島蘭館医として来日し、日本に初めて聴診器をもたらす。
 聴診器は1816年にフランスの医師ラエネック(Laennec)が紙の筒を用いて心臓病患者の胸部を聴診したことに始まり、改良が加えられて、写真のような形(実際は木製・長崎大学所蔵)のものが作られました。器具の一方の端を患者の胸または背中にあて、反対の端を医師の耳に密着させ心音や呼吸音を聞きました。医師の耳に当てる側は真鍮の管を取り付けた部品がはめ込まれてあります。
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