2007年07月24日

芥川龍之介と「河童忌」

芥川龍之介と「河童忌」
 芥川龍之介 1892年(明治25)3月1日〜1927年(昭和2)7月24日)
 東京都京橋区入船町生まれ。小説家。夏目漱石門下で「鼻」「芋粥」で注目された。作品には、「羅生門」「河童(かっぱ)」など数多くの名作を生んだ。古典を題材とし、鋭い感性で洗練された文章を書き、芸術至上主義の新技巧派といわれた。
 1927年(昭和2)この日、神経衰弱のため、自ら命を絶った。享年35歳。命日は作品名にちなみ「河童忌」

芥川龍之介と長崎
 芥川龍之介は、1919年(大正8)5月6日から10日まで菊地寛と来崎、2人は浦上天主堂を見に行き、長崎医専の斎藤茂吉を訪ねています。
 1922年(大正11)4月25日から5月30日まで、長崎に一ヶ月間滞在。
 丸山の芸妓照菊(杉本わか・後年料亭「菊本(きくもと)」の女将)に、「河童屏風(かっぱびょうぶ)」を銀屏風に一気に描き贈っています。「河童屏風(水虎晩帰之図)」は、現在長崎市歴史文化博物館に保管されている。
乳房のある「水虎晩帰之図(すいこばんきのず)」はこれだけであり、龍之介の「河童の絵」で、最大の力作と言われています。
水虎晩帰之図(すいこばんきのず)

橋の上ゆ(から)胡瓜(きゅうり)なくれば(投ぐれば)
水ひひき(響き)すなわち見ゆる
かふろ(禿 おかっぱ)のあたま
   お若さんの為に
    我鬼(がき・龍之介の俳号)酔筆
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2007年07月04日

吉雄耕牛

吉雄耕牛〔享保9年(1724)〜寛政12年(1800)〕
吉雄耕牛 吉雄耕牛は、諱(いみな・名)は永章、通称は定次郎、のち幸左衛門、幸作とも称し、号は耕牛のほか養浩斎など。代々オランダ通詞を勤める吉雄家の第五代、藤三郎の長男として長崎に出生。
 幼い頃からオランダ語を学び、元文2年(1737年)14歳のとき稽古通詞、寛保2年(1742年)には小通詞に進み、寛延元年(1748年)には25歳の若さで大通詞となり、寛政2年(1790)オランダ通詞目付となる。江戸番通詞(オランダ商館長の江戸参府に随行)は11回も勤める。
 通詞の仕事のかたわら、天文、地理、本草などを究め、商館付の医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学ぶ。特に外科医バウェルG.R.Bauer やツュンベリーC.P.Thunbergに指導を受けます。尿検査診断や梅毒の研究などを開拓し、特に外科に優れ、「吉雄流紅毛外科」として広まった。
 当時門下生は600人に達したといわれ、家塾である「成秀館」に学んだ蘭学者・医師は数多く前野良次・杉田玄白・平賀源内・三浦梅園・青木昆陽・野呂元丈・大槻玄沢、林子平、司馬江漢など耕牛に師事しました。なお前野良沢・杉田玄白らによる「解体新書」では序文を書いています。
 子息の永久は医術に権之助は蘭語に優れ、権之助の門人に高野長英らがいる。
 西洋の調度であふれる吉雄邸ではオランダ正月の賀宴が催され、長崎を訪れる人々の名所でもあった。
 寛政12年(1800年)に旧平戸町(現在の江戸町・県警本部付近)の自邸で病没。享年77歳。墓碑は長崎市寺町・禅林寺墓地内
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2007年06月10日

大浦慶、清水寺と聖天堂(歓喜天)に参詣

大浦慶、清水寺と聖天堂(歓喜天)に参詣
 試してみよう長崎検定復習88問351.解説

 聖天堂
 長崎市鍛冶屋町の清水寺。石段を上がり中程左手に山門があり、ここの左奥手に聖天堂がある。この聖天堂に、お慶が信仰していた「歓喜天(かんぎてん)」が祀ってあり、熱心に参拝したといわれている場所。



歓喜天
歓喜天:頭が象、体は人間という象頭人身の神で、障害をなす魔神を支配する神とされ、事業の成功を祈るために祀られたといわれるインドの仏教守護神のひとつ。夫婦和合・安産・子宝の神としての信仰もあります)

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2007年05月08日

坂本龍馬(さかもと・りょうま)

坂本龍馬(さかもと・りょうま)
坂本龍馬(さかもと・りょうま)
 坂本龍馬1835 年(天保6)〜1867年(慶応3)は土佐藩(高知県)の郷士・坂本直足(なおたり)の次男として生まれ、幼少の頃から剣術を学び1858年(安政5)北辰一刀流免許を受けます。
 1861年(文久元)尊皇攘夷を掲げる土佐勤王党に加盟するが意見が合わず翌年、脱藩。
 1862年(文久2)10月、勝海舟と出会い門下生になる。1863年(文久3)勝海舟が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる。1865年(慶応元) 薩摩藩と長州藩の仲介のため尽力、薩長連合を成功させます。
 航海術を活かした亀山社中を長崎に設立した。
 1867年(慶応3)、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。4月、「いろは丸」が紀州藩の船に衝突され瀬戸内海で沈没事件がおこり、紀州藩に「万国公法」で交渉、損害を賠償させる。
 6月には長崎からの船中で後藤象二郎とともに「船中八策」を策定し、後藤象二郎が山内豊信を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた。それが10月の徳川慶喜による大政奉還として実現した。
 しかし同年12月、奉還後の政治体制について画策中、京都近江屋にて見廻組に襲われ中岡慎太郎と共に刺殺される。享年32歳でした。
 墓所:京都市東山区の京都霊山護國神社参道中腹。
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2007年05月07日

長崎三女傑 稲佐のお栄 ロシア海軍の日本の母

長崎三女傑 稲佐のお栄 ロシア海軍の日本の母
道永栄(1860〜1927年)
 稲佐のお栄
 稲佐のお栄は、1860年(万延元)熊本県宇土半島に近い天草四郎とゆかりの深い島、大矢野島に生まれ、12歳の頃に相次いで両親を失い、親戚を頼って20歳まで長崎・茂木の旅館で女中奉公をする。 その後、長崎・稲佐西洋料理店「ボルガ」の女将・「諸岡まつ」の紹介で稲佐の「ロシア将校集会所」で家政婦として働き始める。

 稲佐は1860年(万延元)水兵相手の遊女屋「ロシアマタロス休憩所」が公許される。ロシアは地元の庄屋、志賀家から千坪近い土地を租借し病院や艇庫や小工場を建て、水兵たちの休養の場となっていた。「お栄」はここでロシア語を習得している。

 ロシア語を習得した才色兼備のお栄は将校たちの人気者となり、その名は次第にロシア本国にまで聞こえた。

 22才の時、ロシア艦隊旗艦「バルト号」の艦長付のボーイとしてウラジオストクに渡る。9年後、お栄は帰国し、流暢なロシア語と社交術で、「諸岡まつ」の片腕となって、再び「ボルガ」で働く。

 1891年(明治24)4月27日、ロシア皇太子ニコライが、甥のギリシア親王ジョージとともに極東訪問の途中、艦隊を率いて長崎を訪れた。5月4日の公式上陸まで1週間、皇太子はおしのびで上陸しては散策や買い物、それから「上野彦馬写真館」で写真を撮るなどで長旅の疲れを癒す。お栄は県当局の依頼を受けて皇太子の宴席の幹事として活躍している。日本の休日を楽しむニコライは、1891年(明治24)5月11日、日本人巡査に襲われる運命(大津事件)を知る由もなかった。

 
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2007年05月06日

長崎三女傑

長崎三女傑

 大浦慶 製茶女性貿易商(5月4日・カテゴリ歴史で紹介)

 楠本イネ 日本初の女医イネの生涯と足跡(5月6日・カテゴリ歴史で紹介)

 稲佐のお栄(道永栄) ロシア海軍の日本の母(2・3日のうちに紹介します)
posted by 太鼓山 at 17:19| 長崎 ☁| 郷土歴史人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

長崎三女傑 楠本イネ 日本初の女医イネの生涯と足跡

長崎三女傑 楠本イネ 日本初の女医イネの生涯と足跡
楠本イネ(1827年〜1903年)日本最初の西洋医学を学んだ女医(産科医)
左イネ・右たか(高子)
1827年(文政10)5月6日、肥前国長崎出島で生まれる。
 父は、オランダ商館医であるドイツ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、母は丸山遊郭の引田家の遊女其扇(そのぎ。本名楠本瀧。シーボルトは、彼女を「おたくさん」と呼んでちょう愛した。なお、瀧は遊女ではなく、当時出島には女性は遊女しか入れなかったことから、出島に入るため遊女の名義を借りたとする説もある。瀧17歳のときである)。

 1829年(文政12)12月5日、父シーボルトは、シーボルト事件で国禁(入国禁止)となり、日本を去る。
 シーボルトが日本を去る際に、2歳8ケ月の娘イネの養育を託されたのが門弟の二宮敬作であった。

 1840年(天保11)二宮敬作は、14歳のイネを長崎から伊予国卯之町(宇和町)現在、愛媛県西予市に呼び寄せ、オランダ語・西洋医学を教え、女医としての能力を授けた。

 1845年(弘化2)二宮敬作はイネに産科を学ばせるため備前(岡山)で産科を開業していたシーボルト時代の同門石井宗賢〈そうけん〉のもとに派遣、6年間、イネは産科学を学んで長崎に帰り、てごめにされた宗賢の子「たか(高子)」(1852年2月7日)を出産した。
 石井宗賢は、「師の娘に手を出すとは恩知らずの行動」として石井は同門門下たちより半破門者に近い社会的制裁を受けている。

 宗賢との件を激怒した敬作は、1854年(安政元)、宇和島藩の軍艦建造調査団とともに長崎を再訪した際、イネを再び宇和島に招き、産科のほか内科全般にわたって修行をする。

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posted by 太鼓山 at 16:58| 長崎 ☁| 郷土歴史人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月04日

八十八夜(今年は5月2日)といえば茶摘み、お茶といえば大浦お慶

八十八夜(今年は5月2日)といえば茶摘み、お茶といえば大浦お慶
長崎の女傑(製茶女性貿易商)・大浦慶(1828〜1884)
大浦お慶(長崎市歴史博物館所蔵)
 大浦慶は、長崎・油屋町の大浦家に生まれた。大浦家は、油屋町の老舗の油商であったが、慶は若い頃から油に見切りをつけ、茶貿易に着眼していた。嘉永6年(1853)、出島のオランダ商館員テキストル嬉野茶の見本品を海外に送ることを依頼した時、お慶は25歳であった。お慶の託したお茶は英・米・アラビアの3国へ送られ、これが功を奏し、3年後の安政3年(1856)8月、英国人の貿易商人ウィリアム・オルトがお慶のお茶の見本を携えて来航する。当初、オルトから一万斤(6トン)もの発注を受け、お慶は嬉野産の茶だけでは応じきれず、九州一円の茶を集め、やっと1万斤をアメリカへ向け輸出させた。その後もオルトを通じ製茶の本格的な海外輸出取引は続けられ、お慶は莫大な富を築くことになる。
 明治4年、43歳のお慶は詐欺事件に巻き込まれることになった。元熊本藩士・遠山一也がオルト商会との間で行った煙草の取引で3千両の連帯保証人となり、これが仕組まれた詐欺だったのである。裁判沙汰へと巻き込まれ、お慶は毎月六十三両余りを20ヶ月返済という形で、千五百両近い賠償金支払いを命じられた。これがいわゆる遠山事件で、この事件をきっかけに、大浦家は破産に追い込まれた。この事件にはお慶の製茶貿易商としての道を切り開く際に力を貸した阿蘭陀通詞・品川藤十郎が関与していたといわれる。その後、長崎の豪邸の一つに数えられていた旧家は人手に渡ることになる。
 晩年は不遇であったが、死の直前、「婦女ノ身ヲ以テ率先製茶ノ外輪ヲ図ル其功労」によって農商務卿西郷従道より製茶貿易の功労を賞され、褒賞を受けた。 明治17年4月13日、お慶は55歳で没す。は、お慶が信仰していた「歓喜天(かんぎてん)」を祀る聖天堂のある清水寺本堂から100m程上った高平町の高台にある。


続きを読む(大浦お慶、油屋町の傘鉾を寄進)
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2007年04月22日

エンゲルベルト・ケンペル

エンゲルベルト・ケンペル
(1651年9月16日〜1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。
 ケンペルは、1690年(元禄3年)出島和蘭商館医として、約2年間長崎出島に滞在した。2度の江戸参府を経験し5代将軍・徳川綱吉にも謁見し、歌を披露した。在日中、阿蘭陀通詞今村源右衛門英生の協力を得て精力的に日本の政治、宗教、風俗習慣など全般にわたり研究し資料を収集している。
 1692(元禄5)年10月31日、膨大な日本の資料を持って日本を離れ、オランダのライデン大学で学び医学博士号を取得した後、故郷に戻ると著述活動に取り組む。1712年『廻国奇観』というアジア全般の地理・博物見聞記を発表。このなかには、阿蘭陀通詞・志築忠雄が「鎖国論」として翻訳した論文も含まれています。ケンペルは1716年、この世を去り、彼の主著である『日本誌』はドイツ語の原稿のまま眠っていたが、死後の1727年、ロンドンで『日本誌』が英語版で出版された。その後フランス語版、オランダ語版、ドイツ語版にも訳され出版されました。
 「日本誌」江戸参府図『日本誌』には、日本の政治・社会制度、文学、動植物、風景などに関する記述があるほか、日本に来る途中立ち寄ったシャム国の様子についても述べられています。なかでも長崎から江戸への『江戸参府旅行日記』は、日本の風景や民衆の様子が、細密な観察に基づく精密な言葉で記述されている。日本には、聖職的皇帝(天皇)と世俗的皇帝(将軍)の「二人の支配者」がいるとも紹介している。
 1823年7月、出島和蘭商館医として渡来したシ−ボルトは前に渡来した商館医ケンペル、ツュンベリ−の功績をたたえ、1826年、ケンペル、ツュンベリー記念碑を出島花畑に建てた。碑文にはシーボルトが先学をたたえた文字が刻まれている。この碑文からシーボルトが日本の動植物や文化風俗を世界に紹介したケンペルとツュンベリーを如何に尊敬していたかがわかる。
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2007年04月06日

長崎丸山の芸妓・愛八(あげはち・あいはち)

愛八(あげはち・あいはち)(本名・松尾サダ)
 長崎丸山の芸妓・愛八(あげはち・あいはち)<長崎日見村(現在の網場町)の漁師村でサダは1874年(明治7)10月23日生まれた。
松尾サダは10才で丸山の芸者置屋島田家に見習い奉公に出、1891年(明治24)18才で「愛八」としてお披露目。20〜21才頃にはめきめきと腕を上げ、押しも押されもせぬ名妓になる。愛八はきっぷのいい竹を割ったような性格と相撲好きで、面倒見がよく義侠心の強い女性であった、他人のために尽くし、自分は貧しい生活を送っていたといわれる。
昭和8年12月30日死亡、59歳。
 1931年(昭和6)2月、幕末に流行し、今も多くの人々に親しみ歌われる長崎の代表的民謡『ぶらぶら節』をはじめ10曲を歌ったレコードをビクターから出し、長崎の民謡が全国に知られるようになった。
 なかにし礼の小説『長崎ぶらぶら節』の主人公のモデルが明治時代の丸山芸妓・愛八(映画では吉永小百合が扮した)。
 愛八の墓は、丸山を上った高台(上小島町)にある、小説や映画を見たと思われるファンが訪れている。
posted by 太鼓山 at 09:37| 長崎 ☁| 郷土歴史人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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