2008年03月26日

桃渓橋と卜意

桃渓橋と卜意【1607年(慶長12)〜1698年(元禄11)】
地蔵堂(卜意地蔵堂) 卜意の祖は中国南京出身の韓完頓で、永島仁左衛門と名乗り、筑前の博多名島(現・福岡市東区)や佐賀の小城に移り住み、1605年(慶長10)に卜意の父が長崎の新高麗町に移住してきたと伝えられ、1607年(慶長12)、卜意が誕生。卜意は字で名は勤息(きんそく)といい、晩年に僧となった。
桃渓橋を架けた卜意は信仰が厚く、1680年(延宝8)橋の側に地蔵堂(卜意地蔵堂)を建立、石地蔵を祀り、さらに1696年(元禄9)不動明王の石像を祀る。
 なお、桃渓橋近くにある、月桂山・光雲寺(出来大工町)山門入口には、ト意和尚の偉業を称え民衆がお金を出し合って造ったと言われるト意地蔵が祀られている。かつては桃渓橋のたもとにあったが、1868年(慶応4)、神仏混淆禁止令が発令されたとき一度棄てられたという。また門の入口に古い橋の欄干があるが、桃渓橋の一番はじめの欄干である。
ト意地蔵桃渓橋の一番はじめの欄干
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2008年03月17日

じゃがたらお春

じゃがたらお春(1625年〜1697年)・長崎上筑後町に生まれる。

 徳川幕府が混血児の海外追放令を出したのは1636年(寛永13)、ポルトガル人を出島に隔離すると同時に最初の混血児の受難ともいうべきものが始まる。幕府はキリスト教布教に努めていたポルトガル人、イスパニヤ人の国外退去を命じる施策の一環として、江戸幕府老中・堀田加賀守より長崎奉行に下知状を発した。その下知状文中には、
 一、南蛮人の子孫は、日本人に残し置かざる様堅く申付ける事、もし違背して残し置くあれば、死罪。親族の者も処罰す。
 一、長崎にいる南蛮人の子供、又は、これらの子供を養子にしている者は、父母等一人残らず死罪に価するが、一命を救け、南蛮人のいる地に赴くことを許す。但し、日本に帰っていたり文通したりする者は死罪とし、その罪は親族にも及ぶ。
といった内容の条項が含まれていた。
 この下知状によって、ポルトガル人の血をひく混血児とその母ら287人が、大村藩士800余人が逃亡を見張る警備のなか、ポルトガル船四隻に乗せられマカオへ追放された。
 混血児以外に、日本人の妻になったポルトガル婦人、混血児の母である日本女性、混血児を養子とした日本人夫婦、ポルトガル人の妾であった日本女性などがまじっていた。
 その後、1637年(寛文14)島原の乱が勃発。幕府は一層異国人に対する警戒を強め、1639年(寛永16)ポルトガル船の来航を禁じた。さらに貿易を許していたオランダ人に対する圧力も強化し、同1639年、老中・阿部対馬守より長崎奉行へ訓令。オランダ人等と日本人との間に生れた混血児等に対する追放令が通達された。それは、オランダ人は日本で混血児をもつ事を禁じ、もし混血児をもつような事があった場合には、父、母、子ともに海外へ追放。混血児の母が死亡し祖母が養育しているときはそのままにしてよい。というのであった。
 混血児は、それまでにも度々、マカオに追放されていたが、この追放令によって、オランダ、イギリス系の混血児とその母親32人がオランダ船ブレダ号で平戸からジャガタラ・バタビア(インドネシア・ジャカルタ)に追放された。その中には、イタリア人航海士と日本人マリアとの間に生まれた15歳のお春いて、母37歳、 姉19歳と共に追放になった。以来長崎の幼なじみの「おたつ」に異郷で生きる淋しさと望郷の思いを手紙に綴り、長崎へ送ったといわれている。これを通称「じゃがたら文」という。

続きを読む ジャガタラお春のその後と、じゃがたら文について
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2008年02月06日

向井去来

向井去来(むかい・きょらい)
 向井去来(1651年(慶安4)〜1704年(宝永元)9月10日)は、長崎聖堂を建立したことで知られる儒学者の向井元升(げんしょう)の次男として後興善町(現 興善町)で生まれた。幼名は慶千代、のち兼時、通称を平次郎といった。字を元淵、号を去来。8才のとき父と共に京都に移住、一時、福岡の叔父の家で武芸と儒学を学び、10年後、再び京都に移り、父の後を継いで医師をしていた長男を支えます。しかし俳諧の道に進むようになり35才頃、松尾芭蕉の門下となり、蕉門十哲(しょうもんじってつ)(※芭蕉の10人の優れた弟子たちを称する言葉)の一人で、「去来抄」「旅寝論」などの名著を残している。1689年(元禄2)一時帰郷、長崎に蕉風俳諧を伝え、そして再度、1698年(元禄11)に帰郷し千歳亭(せんざいてい)に滞在。「旅寝論」は、ここで書かれたという。「千歳亭」跡の句碑には、去来がここで詠んだという“名月や たがみにせまる 旅こころ” の句が刻まれてある。
続きを読む・向井去来の句碑
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2007年11月03日

道富丈吉

ヘンドリック・ドゥーフの息子・道富丈吉
 道富丈吉は、出島オランダ商館長を勤めたヘンドリック・ドゥーフと、丸山遊女・瓜生野(うりゅうの)(本名・土井ヨウ)との間に生まれた混血児。ドゥーフ33歳、瓜生野26歳の時。
 日本でのオランダ商館長として滞在中、数多くの試練を乗り越えたドゥーフは任期を終え帰国となると、帰国の喜びよりも、愛児・丈吉を残してゆくことが心配であった。彼は、当時の長崎奉行遠山左衛門尉景晋に願い出て白砂糖300籠を長崎会所に寄託することによって、その売却代金の利子を生活費として瓜生野親子に毎年渡してもらうようにとり計らった。長崎奉行もドゥーフの願いに応え、丈吉を奉行所の役人(唐物目利)に育て上げたが、丈吉は17歳の若さでこの世を去った。寺町の皓台寺の道富丈吉墓碑の右の花立てには、母の紋である揚羽蝶、左の花立てには、父であるヘンドリック・ドゥーフの頭文字、HとDを組み合せた花文字の紋が刻まれてある。
 道富姓はドゥーフにちなんだものであるが、「みちとみ」と称することが多かった。
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2007年10月27日

オランダ通詞・吉雄耕牛

吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)(1724〜1800)
吉雄耕牛 諱は永章、通称は定次郎、のち幸左衛門。幸作とも称する。号は耕牛のほか養浩斎など。
父は吉雄藤三郎。吉雄家は代々オランダ通詞を勤めた家系。
 幼い頃からオランダ語を学び、1737年(元文2)14歳のとき稽古通詞、1742年(寛保2)には小通詞、1748年(寛延元)には25歳の若さで大通詞に昇進、さらに阿蘭陀通詞目付として活躍した。また、江戸番通詞(オランダ商館長の江戸参府に随行)を11回勤め、阿蘭陀通詞を53年間勤めている。
 彼はオランダ語だけではなく、「天文」「地理」「医学」などにおいても指導的立場にあったといわれており、特にツュンベリーに師事し、吉雄流紅毛外科を打ち立て、杉田玄白、平賀源内、司馬江漢をはじめとした数多くの門弟を指導するなど、蘭学の発展に多大な功績を残している。
 前野良沢、杉田玄白ら2人が携わった「解体新書」(1774年(安永3)刊行)に耕牛は序文を書き、この書が良沢と玄白の力作であると賞揚している。

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2007年10月26日

オランダ通詞・馬場佐十郎

馬場佐十郎・貞由(1787-1822)
 馬場佐十郎は通称で、名は貞由、号は穀里である。馬場為八郎の養子となって阿蘭陀通詞となった。
 佐十郎はオランダ語、フランス語、英語を志筑忠雄、阿蘭陀商館長のドゥーフ、商館員ブロンホフに学ぶ。後年大黒屋光太夫やゴロウニンよりロシア語を学んだ語学の天才であった。
 1808年(文化5)幕府天文方に召し出され、ショメルの百科事典の翻訳に関与、「厚生新編」編纂に寄与した。
 阿蘭陀商館長ドゥーフよりエドワード・ジェンナーの牛痘発明のニュースを得ていた佐十郎は中川五郎治(シベリア抑留中にロシア医師から種痘術を習い、箱館を拠点として種痘術を行った、わが国種痘術の創始者)がもたらしたロシア語の牛痘法の本を訳した。
 1820年(文政3) に原稿が書き終え完成した書、「遁火秘訣」は日本最初の牛痘法の書である。
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2007年10月25日

オランダ通詞・志筑忠雄

志筑忠雄(1760〜1806)
 通称忠次郎、後に忠雄。号は柳園。
 長崎の中野家に生まれ、通詞志筑家に養子に入り家を継ぐ、17歳で稽古通詞になったが、1年で職を辞し、蘭学の研究に没頭。天文・暦学を研究し、オックスフォード大学の天文学教授キールの講義録のオランダ語訳にあたった。
 志筑は、ニュートンなどの著書の単なる翻訳、紹介にとどまらず、独自の解釈を加えた独創性にあるといわれる。ニュートン力学等の理解については、江戸時代を通じて最高の水準にあったといい、「暦象新書」、「八円儀測量法」、「日蝕絵算」などを刊行した。
 彼はまた、「鎖国」という言葉の生みの親でもある。オランダ語の文法を本格的に研究するなど、蘭学を学ぶ人々に大きな影響を与えている。杉田玄白は「オランダ通詞として古今第一の人なり」と褒め称えている。
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2007年10月24日

オランダ通詞・楢林鎮山

楢林鎮山(1648-1711)
 楢林鎮山は名を時敏といい、彦四郎、新右衛門、新五兵衛などと称した。号を鎮山、栄休、得生軒という。
 9才のときから出島のオランダ人から蘭学を学び、19歳でオランダ小通詞、39歳で大通詞となる。通詞時代はオランダ商館長の江戸参府に7回随行している。
 普段から外科医に興味があり出島蘭館医師ボッシュやホフマン等に学んだ。後に通詞役を嫡子に譲り、自らは楢林流紅毛外科を創始し家業とする。
 鎮山はフランスの有名なパレの外科書を蘭訳した『紅夷外科宗伝』を著した。
 鎮山は蘭学の翻訳だけではなく実験によってその理論を説き、さらには多くの門下生の育成に努めた。
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2007年10月23日

オランダ通詞・本木庄左衛門・正栄

本木庄左衛門(正栄)(1767〜1822)
 名は正栄、字は子光、号は蘭汀
本木正栄は、本木良永の長男として長崎に生れる。
 ロシヤ使節レザノフの来航(1804年)やイギリス船フェートン号事件(1808年)など対外問題が相次ぎ、幕府は、フランス語・ロシヤ語さらに英語の学習をオランダ通詞に命じた。
 幕府の命によって正栄が中心となり仲間の通詞たちと共に英語の研究を始め、彼はフランス語を商館長のドゥーフに、英語を商館員のブロンホフに学び修得。1811年(文化 8)日本最初の英語学書「諳厄利亜(アンゲリア)興学小筌」、1814年(文化11)英和辞書「諳厄利亜(アンゲリア)語林大成(ごりんたいせい)」、また最初のフランス語学書「払郎察(フランス)辞範(じはん)」などを編纂。
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2007年10月22日

オランダ通詞・本木良永

オランダ通詞
本木 良永(1735〜1794)
通称は栄之進のち仁太夫、号は蘭皐
 本木良永は、オランダから輸入されたさまざまな洋書、天文書、地理書などの学術書を数多く翻訳し、西洋の自然科学などの知識を日本に持ち込んだ。オランダ語で書かれた天文書にあるコペルニクスの地動説を翻訳、地動説を日本に初めて紹介したことで知られている。訳書は「和蘭陀地球図説」「太陽窮理了解説」「平天儀用法」1774年(安永 3)「天地二球用法」1791年(寛政 3)「星術本源太陽窮理了解新制天地二球用法記」など。
 門下は志筑忠雄・大槻玄沢
posted by 太鼓山 at 07:58| 長崎 | 郷土歴史人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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