2008年10月27日

高島秋帆・6

砲痕石
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 砲痕石は高さ約1m・幅約90cmほどの自然石で大砲の標的として利用されていたもので、そのため表面に着弾の痕跡を示す亀裂が多く残っている。この砲痕石のある射的場は、上部も側面も石で囲んだ石室状になっていた。この石材を利用して明治33年(1900)頃、当時の所有者(料亭宝亭)が雪見灯篭に作り変えた。このとき正面の石だけを残し、これを見た西道仙が明治41年(1908)に砲痕石と命名したといわれる。現在、雪見灯篭は解体され石のみ現存しています。
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2008年10月26日

高島秋帆・5

高島秋帆旧宅内石倉
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 高島秋帆の硝煙蔵あるいは倉庫だったと言われています。
 高島秋帆旧宅が国史跡に指定された、大正11年(1922)に、この石倉はすでに建築されていましたが、いつ建築されたのか正確には特定できていません。
 現存する長崎市内の倉のなかで石造りのものは珍しく、石造倉庫の貴重な遺構です。
長崎市教育委員会(平成17年3月設置)説明板より


※ 現在、この石倉は秋帆の時代のものではなく、明治3年(1870)料亭「宝亭」を開いた松尾浅吉氏が明治29年(1896)に建てたものと言われている。
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2008年10月25日

高島秋帆・4

国指定史跡 高島秋帆旧宅
大正11年10月12日指定 長崎市東小島町
 秋帆の父、町年寄高島四郎兵衛茂紀が文化3年(1806)現在地に別邸を建て、雨声楼・齢松軒等と呼ばれた。 秋帆は父の没後町年寄を継ぎ、また長崎表御取締も命じられていた。天保9年(1838)の大火で、大村町の高島邸が類焼したので、以後この別邸が使われた。秋帆は萩野流砲術を父に学び、オランダから銃砲を購入し、併せて西洋砲術を研究し、わが国兵制改革の急務を幕府に上申した。天保12年、(1841)5月武州徳丸原で洋式の訓練を実施し、幕府から褒賞を受けたが、翌年無実の罪で捕えられ、12年後釈放された。国防に尽したが、慶応2年(1866)68才で没。雨声楼は原爆で大破し破却された。
 現在は、石垣・土塀・井戸・砲痕石などが残っています。
長崎市教育委員会資料より
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2008年10月24日

高島秋帆・3

高島秋帆旧宅
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 高島秋帆旧宅は、秋帆の父、高島四郎兵衛茂紀が別邸として文化3年(1806)に建てたものである。瓦葺木造2階の建物であり、2階にあった客室から眺める、盛夏の雨垂れの光景にちなんで、秋帆は客室を「雨声楼(うせいろう)」と名付けた。
 秋帆は天保9年(1838)に大村町(現在の万才町)からこの地に移り、天保13年(1842)に捕われるまでの5年間住んでいる。
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2008年10月23日

高島秋帆・2

高島秋帆
長崎町年寄・講武所砲術師範役・高島流砲術の創始者・洋式兵学者。「火技之中興洋兵之開祖」。
 諱:茂敦(しげよし) 字:子厚(しこう)、舜臣(きみおみ) 通称:糾之丞(ただのじょう)、後に四郎太夫その後、喜平 雅号:秋帆。
 寛政10年8月15日(1798年9月24日)、長崎町年寄を勤める傍ら出島砲台を受け持った高島四郎兵衛茂紀(しげのり)の三男として、長崎に生まれる。
 二男の碩次郎が町年寄・久松家に養子に出た後、長男が夭折(ようせつ)したため、三男の秋帆が家督を継いだ。文化11年(1814)父の跡を継ぎ町年寄に、のち会所調役頭取となった。
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2008年10月22日

高島 秋帆(たかいま しゅうはん)・1

高島秋帆旧宅を散策 
高島秋帆(たかいま しゅうはん) 
 寛政10年(1798年9月24日)〜慶応2年(1866年2月28日)
takasima30.jpg※長崎市教育委員会案内掲示板より
 高島四郎太夫茂敦(秋帆)は町年寄高島家の11代当主です。萩野流砲術を父に学び、銃砲や砲弾の鋳型をオランダから輸入し、西洋式砲術を研究した。
 また、「天保上書」を幕府に上申し、海防等の備えと西洋の軍事技術の導入を説きました。そして武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)での西洋式訓練を実施するなど功績を挙げましたが、天保13年(1842)に無実の罪で12年間捕らえられました。その後は後進の指導にあたり、江戸で没しました。墓も当地にありますが、寺町の高島家墓地(市指定史跡)にも、秋帆と家族の墓碑が門人にとって建てられています。
長崎市教育委員会(平成17年3月設置)


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2008年10月11日

缶詰の日

昨日10月10日は缶詰の日であった
 日本で初めて缶詰を製造したのは長崎の松田雅典といわれている。雅典は長崎・酒屋町の長崎会所吟味役・馬田永成の二男として天保2年(1832)に生まれ、成人して松田家の婿養子となり、姓が松田に変わる。長崎会所に勤め、のちに外国語学校「広運館」に勤務した。仕事柄、外国人との接触が多く、日頃から外国製品に高い関心を寄せていた。そんなある日、フランス語教師のレオン・ジュリー(フランス人)が、本国から持ち込んだ牛肉の缶詰を食べている場面に遭遇。なぜ、何ヶ月も前にフランスから持って来た牛肉が食べられるのかとたいへん驚いた。明治4年(1871)レオン・ジュリーからその製法指導を受け、イワシ油漬缶詰の製造を試作した。これが日本の缶詰の始まりだと言われている。水産業の盛んな長崎にとって重要な産業になるとして、缶詰業の必要性を県令(知事)に説き、明治12年(1879)に炉粕町(現在の日銀長崎支店前)に日本最初の長崎県缶詰試験所を置く。しかし明治15年(1882)閉鎖。松田は明治17年(1884) 缶詰試験所の払下げを受け、自営にて松田缶詰製造所として立ち上げます。松田は明治28年(1895)に没し、その後、経営者も変わり明治29年(1896)には合名会社とし、明治30年(1897)夫婦川町に移転、日露戦争では軍需品として成果を上げますが閉鎖となります。
 松田雅典がイワシ油漬缶詰を試作してから6年後の1877年(明治10年)、明治政府は北海道開拓使による官営の缶詰工場を石狩に設置し、石狩川をさかのぼってくるサケを原料に我が国で初めて缶詰の商業生産を開始した。
 この生産を開始した日が明治10年10月10日であったという記録により、缶詰業界では「10月10日」を「缶詰の日」に制定している。
 松田雅典の墓所は皓臺寺(寺町)にあります。
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2008年04月01日

阿蘭陀通詞・加福吉左衛門

阿蘭陀通詞・加福吉左衛門
 加福家の始祖である吉左衛門は1664年(寛文4)に小通詞となり、1668年(寛文8)には大通詞となった。吉左衛門はポルトガル語に巧みで、ポルトガル人が国外退去になる以前はポルトガル語の通訳として勤めていた人物。加福家は吉左衛門を含め、明治維新に至るまで9代にわたって阿蘭陀通詞を勤めている。
 だが、加福吉左衛門は予期せぬ事件によって命を落した。1689年(元禄2)、吉左衛門はオランダ商館長・コルネリス・ファン・アウトホールンの江戸参府に同行。長崎を出発し日見、矢上、永昌(諫早)宿、彼杵宿、嬉野宿、佐賀宿、神埼宿などを経て、付近で最大級の宿場である田代宿(現在の佐賀県鳥栖市)に到着。一行は長崎街道最大の難所である冷水峠(福岡県飯塚市・筑紫野市間)越えを明日にひかえていたため、早々に床についたのだが、亥の刻(22時頃)に吉左衛門は検使・豊田五左衛門と口論となり、斬りつけられ殺害された。止めに入った下役水野与右衛門も手傷を負ってしまう。豊田五左衛門本人は切腹。一行は大混乱に陥り長崎に戻り、後に検使・下役・阿蘭陀通詞など人員をすべて入れ替え新しい陣容で江戸参府に再出発した。
 加福吉左衛門は8度目の江戸参府中の出来事で、72歳で没した。
タグ:阿蘭陀通詞
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2008年03月31日

上野彦馬

写真術の始祖 上野 彦馬:1838年(天保9)〜1904年(明治37)
 上野彦馬は、写真機を日本に初めてもたらした、長崎の絵師であるとともに長崎奉行所の御用時計師で、蘭学者でもあった上野俊之丞(名は常足、号は英乗)の4男として長崎銀屋町に生まれた。父、上野俊之丞が、フランスのダゲールが発明したダゲレオタイプ(銀板写真機・1848年(嘉永元)輸入)で、1857年(安政4)、薩摩藩主島津斉彬を撮影したのは、わが国最初の唯一の銀板写真として有名である。
 彦馬は16歳のとき、木下逸雲の教育方針によって、日田の広瀬淡窓(儒学者)が開いていた咸宜園で4年間漢学を学ぶ、その後、阿蘭陀通詞名村八右衛門よりオランダ語を学び、1858年(安政5)にはオランダ医官ポンペの塾「舎密(せいみ)試験所」に入り、舎密学(化学)を学んだ。蘭書から湿板写真術を知り大いに写真術に関心を持ち、1859年(安政6)来日したフランス人写真家ロッシェから写真術を学ぶ。塾で知り合った伊勢(三重県)藤堂藩の堀江鍬次郎とともに共同研究を始める。感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。その後、堀江鍬次郎と江戸に出て数々の写真を撮影し、人々を驚かせる。1862年(文久2)津の有造館洋学館での講義用として「舎密局必携」を著す。化学実験室必携ともいわれ漢字で元素記号と化学式を表わす。
 1862年(文久2)、長崎に戻り、中島川畔で「上野撮影局」を開業。これは日本における最初期の写真館であり、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。「上野撮影局」では、坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士の肖像写真も撮影している。また、1874年(明治7)には金星の太陽面通過の金星観測写真を撮影(日本初の天体写真)、1877年(明治10)西南の役が起こると戦場の撮影をし、わが国の報道写真としては第一号となる。

※『舎密局必携』の巻三はとくに彦馬の開拓した写真術の解説であるが、巻一、二には無機化学とくに非金属について記述されている。
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2008年03月30日

唐通事・林道栄

唐通事・林道栄(りん どうえい) 1640年(寛永17)〜1708年(宝永5)
 林道栄は、1640年(寛永17)古川町で出生。名を市兵衛、諱を応ァ(おうさい)、号をカン雲(かんうん)・墨癡(ぼくち)・蘿山(らざん)・それに官梅(かんばい)。父は中国福建省福清出身の林公炎(りん こうえん)で、公炎を祖とした唐通事の名家。道栄は公炎のあとを継ぎ、唐通事として活躍するも書や詩文を得意とし、唐僧の隠元禅師や即非禅師に参禅している。
 林道栄の経歴を記すと、1663年(寛永3)小通事に任命され、1674年(延宝2)大通事に昇任する。1678年(延宝6)、奉行所で詩宴のさい、第24代長崎奉行牛込忠左衛門勝登によって官梅の号を賜ります。1683年(天和3)に父・公炎が死去(86歳)。1697年(元禄10)唐通事目付役となる。1700年(元禄13)、大村純長(大村藩4代藩主)より大浦に茶屋地を賜ります。1699年(元禄12)惣通事座上に昇任、役名風説改役。1708年(宝永5)10月69歳で死去し、養子の二木三十郎が官梅の名称を継ぐ。
 注目すべきは1699年(元禄12)、第35代長崎奉行林藤五郎忠和の就任によって、長崎の町中の「林」という苗字は名乗れなくなり、林道栄は姓を号の官梅とし、嫡子の三郎兵衛はニ木姓を名乗ることになる。
墓所は晧台寺後山にある。
※林道栄の号、カン雲のカンはkan.bmp、父の林公炎の炎はen.bmpと書く。
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