2008年11月07日

高島秋帆・16

秋帆自由の身に!
 開国をせまる外国艦隊がたびたびわが国に出没。嘉永6年(1853)6月のアメリカ・ペリー艦隊が浦賀来航、ペリーが翌年の再来航を予告して去ると、幕府は諸外国の脅威にどう備えるか論議が沸騰。こうした動きの中で、かねてより秋帆釈放の機会を待っていた韮山代官江川太郎左衛門は、此の時期、諸外国の情勢に明るい秋帆の力を借りる必要がある事、徳丸ケ原における西洋砲術の功績、自分の砲術師匠であり恩義がある等で、秋帆の身柄を自分の屋敷に引き取りたいと、幕府に働きかけた。
 嘉永6年(1853)8月6日、老中阿部伊勢守正弘から「出格の訳を以って中追放赦免、安部虎之助へ引渡し取籠めおき候儀も差し免じ候間その方へ引取候よう取り計らわるべく候」と書面が江川に届いた。秋帆には江川太郎左衛門の手代として召し抱えるという通知、つづいて大砲鋳造方への任命状が届いた。
 長崎で逮捕されてからじつに10年10カ月もの年月が過ぎていた。自由の身になった秋帆は人生の復活を喜び、喜平(きへい)と名を改めた。
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2008年11月06日

高島秋帆・15

幽囚の地・岡部
 1845年、水野忠邦が失脚し阿部伊勢守正弘が老中の実権を握ると、弘化3年(1846)7月25日、秋帆事件の再吟味がおこなわれた。吟味の結果、秋帆の逮捕理由の「謀反あり」の罪には全く触れず、罪状は軽微な他のいくつかの軽罪に問われ「中追放に処し、武蔵国岡部藩(現埼玉県)安部虎之助へのお預け」であった。
 秋帆はこの幽居周辺のことを、長崎の高弟大木藤十郎に書き送った手紙のなかで「此地は辺鄙にて十八丁深谷と申す処まで参りませんと所用も弁ぜぬくらいの処でございます。鳶が一匹も見ないのは食べ物がないからでございます。夜分に相成りますれば綿入れに袷を重ねても冷え冷えします。」と描写している。
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2008年11月05日

高島秋帆・14

水野忠邦の罷免失脚、鳥居耀蔵の解任
 阿部伊勢守正弘が天保14年(1843)閏9月11日、25歳で老中となり水野の天保改革時代に不正などを行っていた江戸南町奉行・鳥居耀蔵後藤三右衛門らを処分し、さらに弘化2年(1845)には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由に罷免失脚させ、阿部正弘は老中首座に就く。
 鳥居は職務怠慢、不正を理由に解任され、翌、弘化2年(1845)2月22日に有罪とされ、10月3日には全財産没収の上で讃岐国丸亀藩(現香川県)に預けられる。これ以降、鳥居は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、20年以上お預けの身として軟禁状態に置かれた。
 この間、江戸に移された秋帆は、伝馬町の獄舎に繋がれ裁きを待つこと4年。
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2008年11月04日

高島秋帆・13

徳丸原からわずか一年あまりで秋帆逮捕
高島秋帆宅跡
 洋兵学の幕府採用については、妖怪と恐れられた鳥居耀蔵(幕府守旧派・江戸南町奉行)をはじめとする幕府守旧派や反蘭学派の反対を受けて取りやめとなった。それどころか、石垣で囲んだ城砦のような邸宅に大量の兵器を蓄えているのは、謀反の意図ありとの建議により秋帆は逮捕された。
 天保13年(1842)10月2日、長崎奉行伊沢美作守政義は秋帆ら多くの関係者を逮捕。罪状は謀反を企み鉄砲を購入、邸宅を石垣で囲み城砦としている、公金で兵糧を買い込み、密貿易で軍資金を蓄えた罪「謀反の疑いあり」。これは鳥居と長崎奉行伊沢美作守が秋帆を陥れるために仕組まれた謀略の罠であった。その黒幕は老中水野忠邦であったともいわれている。翌天保14年(1843)、秋帆は江戸伝馬町へ護送され投獄される。
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2008年11月03日

高島秋帆・12

徳丸ヶ原演習 わが国も西洋式砲術を!
 幕命により出府した秋帆は江戸郊外の武州徳丸ヶ原(とくまるがはら・現東京都板橋区高島平)で演習を行なうことになった。天保12年(1841)5月9日。
 高島秋帆・浅五郎親子を指揮官とし、長崎から引率した地役人に門人、総勢100名。2個中隊に組織した洋式編成による洋式砲術の演習は、幕府の高官、各藩主は目を見張り、また大勢の見物人は始めて見る大砲の威力に唖然とするなか、一発の不発弾もなく成功に終わった。幕府は長崎から持参した秋帆の所有する大砲を高額で買い上げ、秋帆に賞詞を伝え、報奨金を下賜した。
これにより幕府の高島流砲術採用が決まり、幕臣の江川太郎左衛門(坦庵)・下曾根金三郎に伝授し長崎に帰った。
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2008年11月01日

高島秋帆・11

天保上書 わが国も西洋式砲術を!
 天保11年(1840)、阿片戦争が勃発。中国における阿片戦争の事細かな内容がオランダ風説書で幕府に伝えられた。
 阿片戦争における清の敗北の原因は、イギリス軍艦の火砲と新戦術よる破壊力の差であることを知った秋帆は、「わが国の砲術は、西洋では数百年前に廃棄したものであり、今後予想される外国からの侵略に備えるには、強力な洋式装備が必須である」とする意見書『天保上書』を、長崎奉行田口加賀守を経由して幕府に提出された。この上書について老中水野忠邦を中心に評議が開かれ、天保12年(1841)5月9日、武州徳丸ヶ原(とくまるがはら・現東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行なわれることになる。
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2008年10月31日

高島秋帆・10

西洋砲術との出会い・3
 町年寄には「脇荷貿易」という特権があった。秋帆は父や実兄で町年寄の久松家へ養子に入っていた碩次郎らの協力を得て、砲術関係の書類もちろんのこと、自然科学、医学書など130冊以上の蘭書類を有していた。また、秋帆は文献だけでなく、火器とその付属品,製造機械、大砲、弾丸、銃など武器そのものも大量に買い求め、その操作、演習の試み、鉄砲の構造原理解明、火薬の成分研究、さらには製造にまで学問を広め、貪欲に西洋砲術を学んだ秋帆は天保5年(1834)高島流砲術を確立。この年には、第28代佐賀藩武雄領主鍋島茂義が入門、天保6年(1835)免許皆伝を与えるとともに、天保6年(1835)に高島が日本で初めて鋳造した自作第一号の西洋式大砲(青銅製モルチール砲)が茂義に献上されている。
(この青銅製モルチール砲は、高島秋帆の名や、1835年に初めて日本で鋳造された旨のオランダ語が刻まれた貴重なものであり、現在、武雄市歴史資料館に保存されてある。)
 天保8年(1837)、40歳で父の跡を継ぎ町年寄となる。(門弟300人とも言われる)
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2008年10月30日

高島秋帆・9

西洋砲術との出会い・2
 秋帆は、文政元年(1818)からは町年寄見習となると、父の指揮下に入り荻野流砲術を学び、出島台場を受け持つようになる。自由な出島の出入りが許可されると、頻繁に出島へ出向き、多くのオランダ人と接触。阿蘭陀通詞にオランダ語兵書の翻訳を依頼、また、オランダ人に疑問を直接問いただすなどしてヨーロッパの軍事技術に関する知識を修得した。それに、文政6年(1823)に来日した出島商館長ブロンホフの後任で実戦の経験が豊富な出島商館長スチュルレル陸軍大佐からの「ナポレオン戦争談」などの西欧の軍事状況を直接聞くことができるなど、秋帆には西洋流砲術を開花させる環境であった。
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2008年10月29日

高島秋帆・8

西洋砲術との出会い・1
 秋帆は海外からの脅威が押し寄せ、鎖国・幕藩体制が亀裂を見せ始めた時代に育った。
 文化元年(1804)、ロシアのレザノフ使節がロシア船「ナデジュダ号」で通商を求め長崎へ来航。その4年後の文化5年(1808)には、フェートン号事件が起こり、長崎港防衛強化が高まり、長崎奉行・曲渕甲斐守は長崎防衛の任務に地役人を加えることにし、港内に七台場を増設。その守備を地役人に担当させた。この時、出島台場の受持ちを任されたのが10代目町年寄の高島四郎兵衛(しろうべえ)、秋帆の父であった。文化6年(1809)、幕府は荻野流砲術家・坂本孫之進を長崎に派遣し、従来の荻野流に改良を加えた荻野新流を高島四郎兵衞等に教えることとなった。坂本孫之進は四郎兵衞に荻野流砲術を教授し二年後に砲術免許を与えた。四郎兵衞は坂本孫之進の後を受けて長崎での砲術師範役を勤めることとなり、高島家は長崎港警備の為に地役人達への砲術を指南する立場になった。
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2008年10月28日

高島秋帆・7

高島秋帆宅の移り変わり
 文化4年(1807)、高島秋帆の父、町年寄高嶋四郎兵衛茂紀が、雷が丘(現東小島町)の1242坪の敷地に2階建の別荘を建て、「雨声楼」「齢松軒」などと呼ばれた。
天保9年(1838)、小川町から出火。大村町に住んでいた高島秋帆の本宅も類焼し、秋帆は小島町の父の別荘に住む。
嘉永6年(1853)、高島秋帆一家が江戸に移った後、門人中島名左衛門が住む。
文久3年(1863)、中島名左衛門が下関で没した後、料亭「咲草屋」となる。
明治3年(1870)、大浦慶の店で働いていた松尾浅吉が料亭「宝亭」を開く。数度にわたり改造され、大正5年(1916)、料亭「宝亭」は廃業。
大正6年(1917)、瓜生タツが旧「宝亭」の一部を借りて料亭「辰巳」を営業。
大正11年(1922)、敷地全体が「高嶋秋帆旧宅」として、史跡名勝天然記念物保存法の第1回指定に選ばれる。
昭和4年(1929)、瓜生タツが今籠町崇福寺門前に「辰巳」を新築移転。
昭和20年(1945)、原爆により別邸は倒壊し姿を消す。
昭和26年(1931)、分譲宅地とされ旧態を失う。
戦後、史跡が切り売りされたことにより、史跡の保存のため、市は昭和30年から購入を始めた。
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