2013年05月05日

唐通事 何仁右衛門【何兆晋(がちょうしん)】

唐通事 何仁右衛門【何兆晋(がちょうしん)】
 文化人として名高い唐通事といえば、万治元年(1658)、唐小通事四人のうちの一人、何仁右衛門(がにえもん/生年不詳(1628-29?) 〜貞享3年(1686))。
 何仁右衛門は、崇福寺大檀那で隠元禅師招致の中心人物のひとりである何高材(がこうざい)の長男で、諱を兆晋(ちょうしん)といった。興福寺の心越(しんえつ)禅師から教わった七弦琴(しちげんきん)の名手でもあり、文化人としても知られる存在。
 兆晋は小通事の職をわずか10年(寛文8年・1668)で退役し、その約10余年後の延宝年間(1673〜1681)に、心越禅師ほか著名人が集う別荘「心田庵(しんでんあん)」を長崎片渕郷に建立したと推定されている。今も先日に紹介した長崎市片渕二丁目に現存する。そこは当時の文化サロン的な場所だったという。
 兆晋は、唐通事を退いた同年、父・高材、弟・兆有とともに清水寺本堂を寄進している。
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2013年03月05日

「北村西望特別展」開催中(3月1日〜3月20日)

「北村西望特別展」開催中(3月1日〜3月20日)
 長崎県南島原市出身で、長崎市の平和公園にある「平和祈念像」や国会議事堂内にある「板垣退助像」など、数多くの素晴らしい作品を制作した。日本彫刻界の巨匠 北村西望翁の特別展が開催されています。
 実際に西望作品にふれることで、作品の力強さと作品に対する西望翁の情熱を感じ、西望翁の偉大さとその功績を知ることができます。
【期   間】平成25年3月1日(金)〜平成25年3月20日(水)祝日
【時   間】9:00〜16:00
【場   所】西望記念館(南島原市南有馬町丙393-1)
※料金(入館料):一般200円、高校生150円、小・中学生100円
【内   容】(1)西望作品特別展 :地元に眠る北村西望翁の貴重な作品の展示。
       (2)観光ガイド(無料):観光ガイドが周辺の観光スポットをご案内。
                  (西望公園、原城跡、原城文化センター)
       (3)粘土教室(無料) :西望芸術へ関心を持ってもらうため、小学生を対象に粘土教室の開催。
西望記念館

【問合せ先】南島原市企画振興部商工観光課 電 話:050-3381-5032
西望記念館(南島原市南有馬町) 電 話:0957-85-2922
http://www.city.minamishimabara.lg.jp/life/pub/detail.aspx?c_id=29&type=top&id=1356
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2012年05月02日

「孫文 梅屋庄吉と長崎」長崎県がホームページ開設

「孫文 梅屋庄吉と長崎」長崎県がホームページ開設
孫文と梅屋庄吉夫妻像 辛亥革命を指導した孫文と、孫文を物心両面で支援した長崎出身の実業家、梅屋庄吉との友情物語を県がホームページを開設し紹介しています。
 ホームページでは、梅屋庄吉が育った梅屋商店跡、長崎を訪れた孫文が足を運んだ旧唐人屋敷など、2人のゆかりの場所も紹介してあり、2人の歴史年表や日中の交流史なども掲載してある。








 孫文 梅屋庄吉と長崎 HPは下アドレスをクリック。http://www.tabinaga.jp/sonbunumeya/
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2009年12月14日

坂本龍馬と小曾根英四郎

小曾根英四郎(1840年〜1890年)
 越前藩、佐賀藩の御用商人で、長崎屈指の豪商でもあり書家でもあった小曽根六郎左衛門の四男として出生。
 坂本龍馬の亀山社中のスポンサーとなり亀山焼(陶磁器)跡地を本拠地に斡旋亀山に家を借りる等、海援隊と龍馬に全てを助けた。家屋敷を海援隊本部として提供、海援隊本部が小曽根家に置かれた。龍馬とは長男「乾堂」を通じて知り合ったと推測されているが、他に、勝海舟、グラバー説もある。龍馬は英四郎の協力や竹中与三郎の支援などを得て帆船大極丸購入をはたしている。
 金銭面で援助した記録も残る。英四郎は慶応2年10月、亀山社中が帆船「大極丸」を購入した際の保証人になる(坂本龍馬手帳摘要)、翌3年4月には龍馬の借金六百両を肩代わりして返済している(同年4月6日付龍馬書簡)。
 慶応3年(1867)4月、亀山社中が土佐藩傘下の「海援隊」に改編されると、英四郎は龍馬と行動を共にした。同隊チャーターの汽船いろは丸に会計官として乗り組み、瀬戸内海で紀州藩船明光丸と衝突する事件にも遭遇している。
 英四郎は派手好みで花町界によく通っていたようだ。龍馬没後は商いにも張り合いを失い、商いに手を出さなくなった。明治23年、愛宕町の愛人宅で50年の生涯を閉じた。
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2009年11月29日

坂本龍馬と長崎関連の場所

坂本龍馬と長崎関連の場所
大浦慶屋敷跡
 大浦慶(1828〜1884)は、油屋町(油屋町2番・橋本ビル)の大浦家に生まれた。大浦家は、油屋町の老舗の油商であったが、慶は若い頃から油に見切りをつけ、茶貿易に着眼していた。嘉永6年(1853)オランダ商館員テキストルに依頼して嬉野茶の見本をイギリス、アメリカ、アラビアに送ったが、これが功を奏し、安政3年(1856)イギリス商人オルトとの1万斤(6トン)の取引となった。以後、日本茶を海外に輸出して莫大な利益を得たという。慶応2年(1866)製茶輸出のピーク。

※ 大浦慶と志士との交遊はあったのか。
 「池道之助日記」慶応2年9月26日によると
「尾浦や学者の後家有りけり。是□□中濱・西川・予三人対面に行ける。実に発明ナル女ナリ、格別美女ニてハナシ。富家ニて手代四・五人使イ、商業盛ニ致しける。四方山ノ咄し致し、馳走ニアイ八ツ比帰る」

 池道之助(いけみちのすけ)は文政4年(1821)幡多郡中ノ浜村(土佐清水市)に生れた。幼少より文武に励み、安政2年(1855)雇足軽となり、のち同郷の中浜万次郎に随従、長崎に赴き、仕置役後藤象二郎の下働き役として精勤。明治元年(1868)帰国、足軽に取立てられ、同時に開成館貨殖局下代として、長崎表商会係を命ぜられた。明治2年(1869)病気で退役。明治4年(1871)郷里近在諸村の村長として治績を挙げたが、翌明治5年(1872)病没。

※ 龍馬との具体的な関係を裏付ける史料はない。
※ 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」には、海援隊が慶に借金をした際、陸奥がその担保になったことが描写されているが、根拠は明らかでない。
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2008年12月04日

荒木宗太郎

逆さVOCマークの朱印船貿易商・荒木宗太郎
オランダ連合東インド商会の章

 (左上)オランダ連合東インド商会の紋章



(下)荒木船の旗印は、円のなかにV・O・Cを組み合わせたもので、これはオランダ連合東インド会社の紋章を逆さにしたデザインである。
逆さVOCマークの朱印船逆さVOCマーク


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2008年12月03日

荒木船と異国渡海朱印状

荒木船と異国渡海朱印状
荒木船と異国渡海朱印状 上部は長崎の朱印船貿易家荒木宗太郎に下付された将軍徳川秀忠の元和8年(1622)11月4日付交趾国宛朱印状の写し。「従日本到交趾国船也元和八年十一月四日」と記され、左上の朱線の四角が「源 秀忠」の朱印を示しています。下部は「荒木宗太郎異国渡海船之図」。
 荒木宗太郎異国渡海船之図の原画は末次船のような絵馬であろうと推定されている

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2008年11月12日

高島秋帆・19

付記
 高島秋帆(1798・9〜1866)が徳丸ケ原で砲術を披露した天保12年5月9日(1841年6月27日)、秋帆42歳に、幕末・維新に活躍した人が何歳であつたかを調べてみた。
 高島流砲術を継承した江川太郎左衛門(1801・6-1855)が40歳、長州藩の大砲鋳造を指導した佐久間象山(1811・3〜1864)30歳、勝海舟(1823・3〜1899)18歳、日本陸軍の創設者と讃えられる大村益次郎(1824・5〜1869)17歳、活版印刷の開拓者の本木昌造(1824・7〜1875)16歳、西郷隆盛(1828・1〜1877)13歳、大久保利通(1830・9〜1878)と吉田松陰(1830・9〜1859)が10歳、木戸孝允(1833・8〜1877)7歳、福沢諭吉(1835・1〜1901)6歳、坂本龍馬(1836・1〜1867)5歳、榎本武揚(1836・10〜1908)4歳、写真術の開拓者である上野彦馬(1838・10〜1904)2歳、伊藤博文(1841・10〜1909)0歳、などであった。
これを見ても高島秋帆が如何に時代に先んじていたかがわかる。
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2008年11月11日

高島秋帆・18

秋帆没す
 嘉永6年(1853)、品川台場構築にあたり海防掛御用取扱手付となる。
安政2年(1855)に品川砲台を完成させ普請役に任ぜられ、鉄砲方手付教授方頭取にも就任。さらに、安政4年(1857)、富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め、文久2年(1862)、武具奉行格として後進の指導と武備の充実に貢献。
 晩年、秋帆は孫の茂巽、妻の香、息子の浅五郎に相次いで先立たれ、慶応2年(1866) 正月14日、現職のまま江戸小石川十人町にて69歳で病没。
 「火技中興洋兵開基(1856)」と称えられ、日本の軍事近代化に大きな足跡を残した。
 贈:正四位、法名:皎月院殿碧水秋帆居士
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2008年11月10日

高島秋帆・17

嘉永上書の中身は開国すべし!
 アメリカのペリー再来航を翌年(1854)にひかえ、幕府は諸藩に意見をもとめたが、そのほとんどが異国排斥を唱える攘夷論。この状況下、秋帆は平和開国通商をと、「嘉永上書」を幕府に提出した。
 それは「いま、外国と戦争してはならぬ。阿片戦争で清国が惨敗した原因は、イギリスの強力な火器のためで、精神力だけでは勝てぬ、武芸より大砲が大切である。交易は両国に利潤があり、西洋では国際間の常道である。交易によって利益を得て国防を万全にすべきである。外国(キリシタン)は戦争に来るわけではなく、貿易を望んでいるのだから恐れることはあるまい。有用の銀・銅で支払った通商のおかげで、医術などが進歩し国益が増進した。蘭学を邪道とするのは見当違いである。」といった内容で開国を説き、さらに歴史の実例を数々あげ非戦を力説したものであった。
 江川太郎左衛門も同意見であったが、篤実な江川さえも献策を躊躇した「嘉永上書」。しかし、秋帆の断固たる態度に、身体を共にする覚悟で老中阿部正弘に提出した。
 この「嘉永上書」は、幕府の鎖国攘夷策を崩すのにも大きな影響を与え、安政元(1854)年の日米和親条約に大きな影響を及ぼしたともいわれている。
posted by 太鼓山 at 08:41| 長崎 ☁ | TrackBack(0) | 郷土歴史人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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