2008年05月28日

サント・ドミンゴ教会跡

サント・ドミンゴ教会跡  旧 勝山町(勝山町30・桜町小学校)
サント・ドミンゴ教会跡 サント・ドミンゴ教会は、慶長14年(1609)、当時の長崎代官村山等安がドミニコ会に寄進した土地に、ドミニコ会のフランシスコ・デ・モラーレス神父によって建てられた教会である。しかし慶長19年(1614)禁教令によってこの教会も破棄された。
 フランシスコ・デ・モラーレス神父は、慶長7年(1602)から薩摩で宣教活動をしていたが、迫害が始まり、1609年に薩摩を追放された。その際、京泊(現在の鹿児島県薩摩川内市)にあった「ロザリオの聖母聖堂」を解体し、その木材を船で運び、長崎に移設したのがサント・ドミンゴ教会である。
 平成16年(2004)に開館したサント・ドミンゴ教会跡資料館には、桜町小学校建設の際に発掘された花十字紋瓦など貴重な埋蔵物や当時の遺構の一部をそのまま展示してある。

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2008年05月27日

サン・フランシスコ教会(修道院)跡

サン・フランシスコ教会(修道院)跡 (旧桜町:現・桜町6長崎市役所別館)
サン・フランシスコ教会(修道院)跡 このサン・フランシスコ教会(修道院)は、慶長16年(1611)アスンシオン神父によって長崎におけるフランシスコ会の本部として建てられるが、完成しないうちに慶長19年(1614)禁教令によって破壊されてしまった悲劇の教会である。
 のち、桜町牢が置かれた。この牢には禁教時代の信者が捕らえられ改宗を強いられたりした。

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2008年05月25日

クルス町牢屋跡

桜町牢屋跡 (桜町6 長崎市役所別館一帯)
 長崎の牢屋は、古くは桜馬場や南馬町にあったといわれるが、元和6年(1620) サン・フランシスコ教会跡のこの地に牢屋が造られ移転。当時ここはクルス町とよばれていて、クルス町の牢屋、また桜町牢として知られるようになった。牢屋は練塀で囲まれ、獄舎、拷問所、吟味所、牢守宿舎、牢番長屋などがあった。獄舎は3棟あり、各棟は3室からなり、監房2室の間にそれぞれ番所が置かれ、牢守1人、牢番10人が監視にあたった。維新後は桜町監獄と改称され、廃止された西坂の処刑場に代わって拷問所で処刑が行われた。この牢屋は明治14年(1881)廃止され、同年片淵郷の乃武館跡に移され明治15年長崎監獄が開設された。明治41年(1908)諫早に監獄が新設されると、名称が長崎監獄片淵分監となった。片淵分監は昭和2年浦上岡町へ、さらに浦上西町に移った。
 明治10年(1877)西南戦争のとき、当時の鹿児島県令の大山綱吉が幕府軍の西郷軍を援助した罪で捕われ、ここで斬首された歴史がある。
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2008年05月24日

長崎・制札場跡

制札場跡(せいさつじょうあと)
 慶長2年(1597)、長崎奉行所は一般町民への広報の場となる制札場を波戸場(大波止)に設置したのが最初で、禁止事項や布告などを掲示。寛永元年(1624)以降はキリスト教禁令の制札も掛けられた。延宝8年(1680) 豊後町に移り、制札12枚が掛けられていた。他にも当時は大波止、出島橋口、長崎村、浦上村、淵村の5箇所に制札場があった。明和2年(1765) 豊後町の制札場が廃止され、八百屋町に移された。文化5年(1808)には、制札場は他に、出島門前、唐人屋敷大門前、同屋敷二の門前、大波止、大黒町、西浜町、北瀬崎米蔵(西坂)、中川郷、山里郷、小瀬戸郷、小島郷、道生田塩硝蔵(木鉢)、御船蔵塩硝蔵、神崎・大多尾(大田尾)石火矢台(西泊)の15箇所があった、それぞれ制札が掛けられていた。制札場は奉行所の管轄で、各設置場所の乙名が管理し、昼番1人、夜番3人の勤務体制であったという。
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2008年05月22日

小曽根邸跡

勝海舟、坂本龍馬ゆかりの地・小曽根邸跡 万才町(旧本博多町)【現長崎地方法務局】
kozone1.jpg 小曾根家は幕末から明治の長崎を代表する豪商で、幕末期、小曾根六左衛門は福井藩(越前藩)松平家御用達を勤めた。
 安政6年(1859)、大浦に居留地が造成されると、六左衛門と子である栄(乾堂)はその隣接地を造成、その一部は現在でも小曽根町と呼ばれている。栄は書画を得意とした文人で、勝海舟や坂本竜馬や等とも親交があり、特に龍馬が組織した亀山社中を援助した。慶応2年(1866)、海援隊の近藤長次郎(上杉宗二郎)は小曽根邸の一室(梅の間)で切腹。なお近藤長次郎は別名を梅花道人(梅花書屋)と称し、彼の墓石には坂本竜馬によって「梅花書屋氏の墓」と書かれている。墓碑は皓台寺後山(寺町)小曾根家墓地内にある。
掲示板説明より

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2008年05月20日

新町活版所跡

近代印刷発祥の地・新町活版所跡 新町(現・興善町6 長崎県自治会館)
新町活版所跡 萩藩(長州藩)蔵屋敷、済美館があった跡に、本木昌造は普通教育の必要を感じ明治2年(1869)、教育の場として「新街義塾」を開設した。ここでは読書、書道、算術、英語などを教育したが、授業料等は全て無料であったという。
その後、私塾の経費を賄う目的もあり、明治3年(1870)に「新町活版所」を創設し、本格的に活字製造と印刷の業務を始め、大阪、東京、横浜と次々に活版所を開設、横浜新聞(日本の日刊新聞のはじまり) を創刊。また、明治5年(1872)には週間の長崎新聞を創刊している。

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2008年05月19日

済美館跡

済美館跡 興善町6(旧・新町)
 済美館は、安政5年(1858)岩原目付屋敷内に設置された「英語伝習所」を前身とするが、文久2年(1862)片淵郷・乃武館(だいぶかん)に移転、「英語所」(英語稽古所)と改称、元治元年(1864)江戸町に移り「洋学所」と改め、同年大村町に移り「語学所」と改称され、露・英・仏語を教えた。慶応元年(1865)新町に移り「済美館」と改称。英・仏・露・清・蘭語の語学以外に歴史、地理、数学、物理、経済を教えた。慶応4年(1868)4月には西役所跡に移され、長崎府の管轄となって「広運館」となる。その後「広運館」は、さらに改称・移転が続き「長崎外国語学校」となっていた明治19年(1886)には「公立長崎商業学校」に合併された。
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2008年05月18日

萩藩蔵屋敷跡・巌流坂

萩藩蔵屋敷跡・巌流坂:興善町6( 旧・新町)
巌流坂 正保4年(1647)にポルトガル船2隻が長崎港へ来航し、幕府はこれを拿捕するため、西国各藩に約5万人の動員を命令しました。これ以降、各藩は長崎に専用の蔵屋敷を設置し、長崎奉行との連携をより密にしました。この場所には、萩藩蔵屋敷(現・長崎県自治会館付近一帯)、この坂を隔てて向かい側には小倉藩蔵屋敷がありました。このことからこの坂道は両藩を挟む関門海峡の巌流島(舟島)にちなんで、巌流坂と呼ばれています。

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2008年05月17日

詩儒・吉村迂斎遺跡

詩儒・吉村迂斎遺跡(しじゅ・よしむらうさいいせき):興善町6
詩儒・吉村迂斎 萩藩は最初、本五島町にあったが、天明年間(1781〜89)以降は新町のこの地に蔵屋敷を構えた。御用達は吉村家が代々勤めたが、特に詩人であって儒学者・吉村迂斎(寛延2:1749〜文化2:1805)は、名を正隆、通称を久右衛門といい、漢詩、填詞、古詩で知られていた。

漢詩(かんし):中国の伝統詩。一句が四言・五言または七言から成るものが一般的で、平仄(ひようそく)・脚韻などのきまりがあり、古詩・楽府(がふ)・絶句・律詩などの種類がある。からうた。
填詞(てんし):中国の歌曲の一体。西域伝来の音楽に刺激され、中唐の頃民間に起こり、宋代に広まった。譜面に合わせて長短の句をはめこんで作ったがのち、音楽から離れ、独自の詩形となった。詞余。長短句。詞。
古詩(こし):中国の古典詩で、古体の詩型に属するもの。近体詩の成立する唐代以前の詩のほか、古体にならって作られた唐代以後の詩をもいう。
大辞林


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2008年05月16日

ミゼリコルディア本部跡

ミゼリコルディア本部(教会)跡:万才町(旧本博多町・現長崎地方法務局)
ミゼリコルディア本部(教会)跡 天正11年(1583)、日本人キリシタンのジュスティーノと妻のジュスタによって設立された。ここにはキリスト教ヒューマニズムによる病院と孤児・老人施設があった。慶長19年(1614) 【一説に元和5年(1619)】のキリシタン弾圧で教会部は破壊され、施設だけは残されていたが、元和6年(1620)すべて姿を消した。
後世まで「慈悲屋」と呼ばれ、住民に語り伝えられた。今日の社会福祉施設の先駆けである。
説明板参照

ミゼリコルディア(Misericordia)とはラテン語で慈悲という意味

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