2008年06月08日

長崎奉行・三の堀跡

三の堀跡 (桜町・勝山町)
 慶長6年(1601)引地町と袋町の間に大堀(三の堀)が構えられた。慶長10年(1605)三の堀の一部は埋められ、引地町が造成された。その後、涸水がちだったため、寛文12年(1672)に埋められ、岩永宗故の屋敷地とされた。
posted by 太鼓山 at 09:38| 長崎 | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月07日

長崎奉行所・二の堀跡

二の堀跡 桜町・興善町境界部(旧豊後町)
 文禄元年(1592)の一の堀に続いて当時の桜町と豊後町の間に長崎の防備のために慶長元年(1596)二の堀が造られた。ここは大堀のみの構造。その後、延宝8年(1680) 涸水がちで埋められ、曽根川検校の屋敷地とされたという。
posted by 太鼓山 at 07:31| 長崎 ☁| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月06日

長崎奉行所・一の堀跡

一の堀跡(万才町6・7)
 文禄元年(1592)、現在のNTT西日本長崎支店(現・万才町:旧博多町)の所に最初の長崎奉行所が置かれた。初代の奉行・寺沢志摩守広高は、長崎奉行所の防備のため南側の博多町と島原町の間(現・住友生命ビルの南側)に大堀を、奉行所の北側に小堀を構えた。
 しかし、江戸時代には埋め立てられ、大堀の跡は旧本博多に組み込まれ、小堀跡は堀町と命名された。
posted by 太鼓山 at 08:48| 長崎 ☀| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月05日

長崎奉行所跡

長崎奉行所跡 万才町2全域(旧本博多町)
 江戸時代の長崎には、幕府の直轄地として海外との貿易と外交、長崎の行政や司法、それに、キリシタンの取り締まりなど、幅広い仕事をしていた長崎奉行所が置かれていた。
 初め長崎奉行所は、文禄元年(1592)、現在のNTT西日本長崎支店(現・万才町:旧本博多町)一帯に置かれ、肥前唐津藩領主・寺澤志摩守広高を奉行に任命。寛永10年(1633)からは2人制とし奉行所内を2つの屋敷(今村屋敷、曽我屋敷)に分けて執務を行います。同年、今村奉行屋敷が火災焼失。外浦町(現・長崎県庁)に奉行所を造築し(寛文10〜13年頃)、西屋敷とした。寛文3年(1663)の寛文の大火で再び焼失。西屋敷東手の高木作右衛門屋敷を接収し奉行所を再建。東役所と西役所の2つを設置。しかし場所が隣接していると火災の際類焼もまぬがれないことから長崎奉行・牛込忠左衛門奉行は、延宝元年(1673)、東役所を立山(現・長崎歴史文化博物館在地)に移した。以後、長崎奉行所は立山役所(東役所)と外浦町の西役所との体制になる。
 立山役所(総坪数3,278坪)と西役所(総坪数1,661坪)は明治維新に廃止されるまで、長崎奉行所とされた。
posted by 太鼓山 at 08:40| 長崎 ☁| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月04日

豊後町稲荷神社

豊後町稲荷神社(安豊(やすとよ)稲荷神社) 興善町3-13(旧豊後町)
豊後町稲荷神社(安豊(やすとよ)稲荷神社)
 豊後町稲荷神社は以前、現・長崎商工会館の北側に建てられていた。創建などは不明。この神社の鳥居には「安豊稲荷神社」とあり豊後町の安泰を願う土地の守護神であろう。
手水鉢 また、この神社には、第84代長崎奉行遠山左衛門尉景晋が奉納したとされる手水鉢石が残っている。

posted by 太鼓山 at 09:45| 長崎 ☁| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月03日

長崎東京間郵便線路開通

長崎東京間郵便線路開通起点 万才町7-1(旧 本博多町)
旧本博多郵便局 郵便線路はそれまでの飛脚に代わり信書の逓送方法で、明治4年(1871)3月1日、東京〜大阪間に開通、12月5日には長崎まで延長され、同5年(1872)7月にはほぼ全国に開通した。この郵便線路は東京〜長崎の場合、東京から東海道、山陽道、西海道の各宿駅をリレーされるもので、それまでの飛脚便の190時間は、一挙に95時間に短縮された。明治5年、この地に長崎郵便役所が設置されたが、同8年(1875)本博多郵便局と改称された。
説明板参照


posted by 太鼓山 at 09:17| 長崎 ☔| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月02日

向井去来生誕の地

向井去来生誕の地 興善町1・長崎市立図書館裏(旧後興善町)
向井去来 向井去来(慶安4年・1651〜宝永元年・1704)は幼名・慶千代、通称、喜平次(平次郎)といい、字を元淵、号を去来とし、向井元升の次男としてこの地に生まれたが、8歳のとき父母とともに京都に移住、以後、京都で活躍した。貞享3年(1686)松尾芭蕉の門下となり、やがて蕉門十哲(松尾芭蕉の10人の優れた門下)の一人となり、鎮西俳諧奉行と称された。
 長崎には母方の親戚、特に叔母の蓑田勝がいたこたから、しばしば帰郷し、それに長崎に蕉風俳諧を伝えている。去来の句碑には薄塚(すすきづか)や稲妻句碑、渡鳥句碑(わたりどりづか)」、時雨塚、名月句碑などがあるが、薄塚(県指定文化財)は元禄2年(1689)の日見峠での一族や門人達との別れを詠んだものである。
 「君が手も ましるなるべし 花薄(はなすすき)」旧長崎街道日見峠芒塚の句碑、「いなづまやどの傾城と仮枕」丸山の料亭「花月」前の句碑、「故さとも今は仮寝や渡り鳥」本河内、は有名。

posted by 太鼓山 at 08:38| 長崎 | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月31日

長崎会所

長崎会所跡(上の町4・玉園町2)
 当初は、京都・堺・長崎・江戸・大阪の5カ所の糸割符商人が五カ所商人会所を組織して生糸分配を司っていた。その後,延宝3年(1675)糸割賦会所跡に設置された市法会所は、貞享2年(1685)、割符会所と変遷、元禄11年(1698)長崎会所と改称され、オランダ貿易や中国貿易に関する業務と幕府の運上や市中への配分銀などを管掌した。
 勘定奉行や長崎奉行の支配下で、正徳新令以降、会所には,会所調役(2人)以下、会所目付(2人)、吟味役(8人)、請払役(47人)、目利きなど240人を数えた。坪数は544坪で、銀蔵、荷物蔵、書物蔵、砂糖蔵などの土蔵などもあった。
 その後、幕府が開港すると長崎貿易の停滞とともに衰退し、慶応3年(1867)、仮御金蔵に改称された。のち、この地は明治7年(1874)裁判所が設置されると、以後、裁判官の官舎が建てられた。
posted by 太鼓山 at 08:50| 長崎 ☔ | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月30日

長崎奉行所武具蔵跡

長崎奉行所武具蔵跡 玉園町2(旧 東上町)
 武具蔵は、長崎奉行所が非常時に使用する武具。弓、弓矢、鉄砲、具足、馬印、旗などを収納する蔵である。元禄2年(1689)より以後、本興善町の糸荷蔵に収納されたが、享保6年(1721)東上町の長崎会所内の蔵に一時移され、さらに天明年間(1781〜89)この地に改めて長崎奉行所武具蔵が造られた。
 60坪の敷地に武具蔵1棟、詰所1棟、番人詰所1棟があり、長崎代官の管轄で、武具蔵預5人にて管理された。
posted by 太鼓山 at 09:26| 長崎 ☀| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月29日

長崎代官・末次平蔵宅跡

末次平蔵宅跡 旧 勝山町(勝山町30・桜町小学校)
 慶長19年(1614)の禁教令によってサント・ドミンゴ教会が破壊された後、その跡地は第三代長崎代官・末次平蔵政直の屋敷となり、末次家失脚後は、同じ代官職についた高木家が屋敷を構え、約250数年にわたり長崎代官屋敷として利用された。代官所の敷地は2,065坪余。
 長崎代官は天正15年(1587)、豊臣秀吉が任命した鍋島飛騨守直茂が初代で、その後、文禄元年(1592)に村山等安となり、元和2年(1616) 等安が失脚すると末次平蔵政直が任ぜられた。末次家は末次平蔵茂貞、茂房と代々世襲されていくが、延宝4年(1676)、第四代末次平蔵茂朝の国禁品の密貿易が発覚、一族は死罪や流罪となり末次家は断絶。以降、長崎代官の制度はなくなり、町年寄がその職を代行したが、元文4年(1739)長崎代官が再設され、御用物役高木作右衛門忠與が長崎代官に任じられた。以降、高木家が代々幕末維新(1868)まで世襲し、御用物方も兼務した。
posted by 太鼓山 at 07:33| 長崎 ☔| 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
私が散策して、ひらい出した最新の人気商品はこれ!