2009年05月15日

小菅修船場跡・巻上げ状況

小菅修船場跡
明治十年頃の巻上げ状況を図化したもの
小菅修船場跡・掲示資料より

小菅修船場跡
明治十年頃の巻上げ状況を図化したもの
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2009年05月14日

小菅修船場跡の曳揚げ小屋

小菅修船場跡の曳揚げ小屋(煉瓦造平屋建て切妻屋根瓦葺き)
小菅修船場跡の曳揚げ小屋
 現存する曳揚げ小屋は、間口9m、奥行き9.17mで、内部は仕切りがない。内部は大まかに3分割され、中央の区画はやや右側に寄った所に掘り込みを設けて、大小の歯車を並べた曳揚げ機械が設置され、その奥に蒸気機関が置かれてある。右側の区画は煉瓦積みの上に鉄製の筒型ボイラーが置かれ前面に作業スペースがある。左側の区画は、設備は特にない。
 この建物は煉瓦造りで、煉瓦の積み方はフランス積みである。使われた煉瓦は、通称「こんにゃく煉瓦」と呼ばれた煉瓦(寸法・218×100×40o)。1861年(文久元)に竣工した長崎製鉄所を建設した際に設置された煉瓦の焼成炉から生産された煉瓦が使われている。長崎製鉄所に建てられた建物は現在残っていないため、この曳揚げ小屋は、現存する日本最古の煉瓦造りの建物である。
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2009年05月13日

小菅修船場跡の曳揚げ装置

小菅修船場跡の曳揚げ装置
小菅修船場跡の曳揚げ装置
 幕末に築造された現存最初期の近代造船設備。1867年(慶応3)薩摩藩は外国から買い入れた蒸気船の補修を目的に貿易商T.B.グラバーらと共同出資で着工し、翌1868年(明治元)に完成した。
 このドックは、スリップ式と呼ばれるもので、曳揚げ小屋に設置した曳揚げ装置を用い1,000tまでの船を上架出来た。曳揚げ小屋には、英国から輸入の筒型ボイラー、竪型2気筒25馬力の蒸気機関、歯車による曳揚げ装置が設置されている。船台に敷設されたレール上に台車(船架)をソロバンのように並べ、チェーンを介して蒸気機関で曳き揚げる方式である。
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2009年05月12日

国指定史跡:小菅修船場跡

国指定史跡:小菅修船場跡
昭和44年4月12日指定 所有者:三菱重工業株式会社長崎造船所

国指定史跡:小菅修船場跡
薩摩藩士五代才助(のち友厚)が小松帯刀(たてわき)・英人グラバーの協力を得て建設した洋式スリップ・ドックで、明治元年(1868)12月竣工した。
 船台がソロバン状であったから、通称ソロバンドックとよばれた。船体引揚げ用蒸気機関その他施設一切は、グラバーの仲介で英国から輸入された。
 明治2年(1869)3月政府が買収、対岸の官営長崎製鉄所の所管とした。のちこの官業は民間に移管され、三菱造船所となる。
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2009年02月19日

古橋(旧中河橋)

古橋(旧中河橋)(中島川上流・長崎市桜馬場町2丁目)
長崎市指定有形文化財:昭和47年6月10日指定
古橋(旧中河橋) 鳴滝川に架かるこの橋は、一ノ瀬から桜馬場に通じる長崎の玄関口の橋にあたり、1654年(承応3年)唐通事の林守殿(りんしゅでん・殿の下に土が付く)(帰化名・林仁兵衛)が私財を投じて架設。
 はじめは「中河橋」(なかごばし)といったが、1918年(大正7年)下流に「中川橋」ができたため「古橋」と改称された。
アーチ両脇の布石が、矢印記号のように噛み込んでいるのが特徴で、石工の技術のたかさがうかがえ他には例を見ない貴重な石橋。 側面から見ると、この橋は約1mちかく野石で高揚げされ欄干の丸親柱が埋もれているのがわかる、これは明治初期、人馬・人力車が通れるように段差を埋めたものと考察されている。
 橋付近の「いしだたみ」は清時代の江南風舗装術のエキゾチックなもので、歌にも唄われる「坂の長崎石畳」の最古の風情である。

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2009年02月18日

一ノ瀬橋

一ノ瀬橋(長崎市本川内)
一ノ瀬橋 一ノ瀬橋(中島川上流・市瀬川に架かる橋)は、唐大通事陳道隆(1617〜1676)によって架けられた。道隆は日本名を潁川藤左衛門といい、前妻慶林の没後、後妻に代官末次平蔵の娘を迎えるが、その妻・法春院も1652年(慶安5)に病没した。 その法要追善として翌1653年(承応2)に日見峠への道筋にあたるこの場所にアーチ式石橋「一ノ瀬橋」を架けた。
 橋銘にローマ字で「ICHINOSEBASHI」とあるが、これは、1887年(明治20)頃刻まれたものであるという。(一説には1882年(明治15)の日見国道改修の折り説がある)

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2009年02月16日

蛍茶屋・一瀬の茶屋

蛍茶屋・一瀬の茶屋
 長崎電気軌道・路面電車の終点「蛍茶屋」には、江戸時代、一瀬橋の傍らに「一瀬の茶屋」という茶屋があった。この付近は竹林と杉林が茂り、清流が流れ夏は蛍が乱舞いしていた名勝地だったことから、いつしかこの茶屋を蛍茶屋と呼ぶようになった。また、長崎を旅立つ人と、見送りの人たちが別れを惜しんで酒を酌み交わしたのも、この茶屋であった。
 「蛍茶屋」は一ノ瀬橋の傍らに建ち、文化文政時代(1804〜30)に甲斐田市左衛門が旅人歓送迎の茶屋として創業したのではないかといわれている。幕末のころは繁盛したが、昭和の初め店を閉めた。
posted by 太鼓山 at 10:05| 長崎 | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月15日

一ノ瀬口

一ノ瀬口
版画・市瀬晴嵐
 昨日の旧長崎街道「一ノ瀬口」とは、一ノ瀬橋を中心とする旧長崎街道の一部をいい。長崎八景の一つで「市瀬晴嵐」と歌われた。晴嵐とは晴れた日の山がすみという意味。長崎甚句に“送りましょうぞ送られましょうぞ せめて一ノ瀬あたりまで”と歌われ、長崎を旅立つ人々がここで別れを惜しみ、水盃を酌み交わしをしたところ。
posted by 太鼓山 at 17:32| 長崎 ☀ | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月14日

渡り鳥塚(句碑)(わたりとりずか)

渡り鳥塚(句碑)(わたりとりずか) 市指定有形文化財:平成10年4月30日指定
所在地:長崎市本河内町56番2  所在者:馬町財産区
渡り鳥塚 渡り鳥塚は昔、旧長崎街道沿いに建っていたが、日見新道や国道34号線の道路拡張などで移転を繰り返し現在地に落ち着いた。(一ノ瀬口旧道日見峠登り口)
 渡り鳥塚は文化10年(1813)6月、長崎の俳人平田祥禾を始めとして、当時の蕉門俳人が、芭蕉翁120回忌、去来110回忌に当たり、馬町墓地に建立したもの。祥禾筆。
碑文
 正面に松尾芭蕉の句「めにかゝる雲や 志はしのわたり鳥 翁」(目にかかる雲やしばしの渡り鳥・芭蕉)
 右面に長崎出身の向井去来の句「故さとも今はかり寝や渡りとり 落柿舎」(ふるさとも今は仮寝や渡り鳥・去来)
 裏面に「文化十とせの夏みな月蕉門の徒弟こゝろを合わせ建けるよしを祥禾しるす」と刻んである。

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2009年02月12日

花見塚

第4回長崎歴史文化観光検定1級問題

花見塚(はなみつか)「清水寺境内(長崎市鍛冶屋町8-43)」
松尾芭蕉・花見塚
 清水寺本堂前にある花見塚は松尾芭蕉[寛永21年(1644)〜元禄7年(1694)10月12日]と平田祥禾(ひらたしょうか)の句碑で松尾芭蕉没後130年を記念して文政7年(1824) 甲申三月に建てられたもの。平田祥禾は松尾芭蕉の高弟(焦門十哲)の一人の向井去来の流れを汲む俳人で、碑は平田祥禾の弟子の中川基映、志賀省夫、桑村對笠、平田有隣によって建立されました。
碑文 (本堂脇の桜の木の横)
 松尾芭蕉が詠んだ「志はら九ハ 花のうへ那る 月夜可南 翁(しはらくは花の上なる月夜かな 翁)
の句とその返歌「初さくら世に僞りの道もなし 祥禾」。

posted by 太鼓山 at 13:40| 長崎 ☀ | TrackBack(1) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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