2013年06月22日

長崎被爆遺構4件を国登録へ

長崎被爆遺構4件を国登録へ
国の文化財に登録される上から旧城山国民学校校舎、山王神社二の鳥居、旧長崎医科大学門柱 、浦上天主堂旧鐘楼
旧城山国民学校校舎
山王神社二の鳥居
旧長崎医科大学門柱浦上天主堂旧鐘楼
 国の文化審議会(宮田亮平会長)は21日、長崎原爆遺跡として長崎市の旧城山国民学校校舎(城山町)、浦上天主堂旧鐘楼(本尾町)、旧長崎医科大学門柱(坂本1丁目)、山王神社二の鳥居(同)の4件を、新たな登録記念物(遺跡関係)に登録するよう文部科学相に答申した。4遺構は爆心地の半径約500〜800メートル以内にあり、登録されると、被爆の実相を伝える遺構が国の文化財となっているのは広島市の原爆ドーム(1995年国指定史跡)だけで、長崎原爆関連では初めてとなる。
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2013年05月06日

心田庵(長崎市 史跡)

心田庵(長崎市 史跡)
和室(4.5畳 茶室)よりの庭園
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和室(8畳)よりの庭園
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茶室(2畳)
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2013年05月04日

心田庵:長崎市指定文化財(史跡)

心田庵(長崎市片渕二丁目18番18号)
長崎市指定文化財(史跡) 指定年月日 平成25年2月27日
 心田庵は、唐通事である何兆晋(がちょうしん・生年不詳〜貞享3年(1686))が1660〜80年代頃に長崎片渕郷に建設した別荘である。
 長崎の茶道において重要視された由来があり、天和2年(1682)に記された「心田庵記」や、文化14年(1817)に描かれた「心田庵図」など、当地に関わる資料も残されている。このように長崎市に於いて歴史的・文化的価値が高い土地として位置づけられる。
 「心田庵」の名称については、「心田庵記」に、心田庵主である「何兆晋の心の田畑はとても広大である。まさに子が種をまき、孫が耕すごとく、心の宝である。」という意味の内容がきされている由来からなる。
長崎教育委員会の掲載資料参考

春の一般公開
期間:4月27日(土)〜5月12日(日)
時間:午前9時〜午後5時
料金:大人300円、高校生以下無料
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2009年11月28日

龍馬と長崎関連の場所

坂本龍馬と長崎関連の場所
小曾根家宅跡
 小曾根家は幕末から明治の長崎を代表する豪商で、幕末期、小曾根六左衛門は福井藩(越前藩)松平家御用達を勤めた。安政6年(1859)、大浦に居留地が造成されると、六左衛門と子である栄(乾堂)はその隣接地を造成、その一部は現在でも小曽根町と呼ばれている。栄は書画を得意とした文人で、勝海舟や坂本龍馬や等とも親交があり、特に龍馬が組織した亀山社中を援助した。慶応2年(1866)、海援隊の近藤長次郎(上杉宗二郎)は小曽根邸の一室(梅の間)で切腹。なお近藤長次郎は別名を梅花道人(梅花書屋)と称し、彼の墓石には坂本竜馬によって「梅花書屋氏の墓」と書かれている。墓碑は皓台寺後山(寺町)小曾根家墓地内にある。

※ 龍馬は亀山(現:伊良林地域)の社中よりも、小曾根家宅で活動することが多かった。
※ 坂本龍馬の愛妻お龍は慶応2年(1866)6月から翌年2月までの約8カ月間、長崎の小曽根家宅で乾堂の娘キクから月琴をならい暮らしていた。この時期の龍馬は亀山社中の経営に専念し長崎にいることが多く、2人の結婚生活が3年余りに過ぎないことを思えば、長崎は文字通り2人の「愛の巣」だったといえる。
※ 慶応3年海援隊結成の会議が小曾根家宅で行われ、のち「海援隊」の本拠地となる。
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2009年11月25日

玉川亭跡(たまがわてい)

玉川亭跡(たまがわてい)(長崎市八幡町3−5・現在、玉川亭跡には友愛八幡町保育園が建つ)
木戸孝允 幕末当時、中島川上流の大井手橋付近に【玉川亭】「本紙屋町(現・八幡町)」という料亭がありました。安政2年(1855)頃、藤井利平により西上町に創業され、のちにこの場所に移り、川魚料理で有名だったという。2代目・藤井静治は特に包丁道に通じ、四条家から包丁免許鑑札を授けられたほどであった。

 慶応3年(1867)8月20日、坂本龍馬と土佐藩士・佐々木高行(ささき たかゆき・三四郎)はこの玉川亭で、長州藩士・木戸孝允 (きど たかよし・準一郎・桂小五郎)と伊藤俊輔(いとう しゅんすけ・博文)に会い、政治情勢について意見を交換した。このとき、木戸から長州藩船の修理費用の不足を相談されたため、龍馬らは土佐商会に掛け合い調達している。
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2009年07月30日

長崎市亀山社中記念館いよいよオープン

長崎市亀山社中記念館いよいよオープン(平成21年8月1日)
長崎市亀山社中記念館 亀山社中は、日本初の貿易商社ともいわれ、薩摩藩の庇護の下に坂本龍馬が中心となり、慶応元年(1865)に組織されました。その亀山社中の遺構として伝わっている家屋が当時に近い形で復元され、「長崎市亀山社中記念館」として平成21年8月1日にいよいよオープンします。
 坂本龍馬が付けていた、紋服・ブーツ・刀などが展示される。

入館料:一般300円 高校生200円 小・中学生150円
開館時間:9時〜17時 年中無休
住所:長崎市伊良林2丁目7-24
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2009年05月21日

小菅修船場跡・曳揚げ小屋の煉瓦

小菅修船場跡・曳揚げ小屋の煉瓦
 この建物は煉瓦造りで、使われた煉瓦は、通称「こんにゃく煉瓦」と呼ばれた煉瓦(寸法・218×100×40o)。1861年(文久元)に竣工した長崎製鉄所を建設した際に設置された煉瓦の焼成炉から生産された煉瓦が使われている。現存する日本最古の煉瓦造りの建物であり、煉瓦の積み方はフランス積みである。(日本工業規格・普通煉瓦 210×100×60mm )
煉瓦の積み方
イギリス積み
イギリス積み
 煉瓦を長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む方式。フランス積みに比べると、イギリス積みは強度が高く、経済的(使う煉瓦が少なくて済む)といわれる。


フランス積み(フランドル積み)
曳揚げ小屋の煉瓦・フランス積み
 フランス積み
 煉瓦の長手と小口を交互に積む方式。壁の表面には華麗な柄が現れ、最も煉瓦らしく美しいといわれている。
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2009年05月20日

小菅修船場跡・建造施設品

小菅修船場跡・建造施設品
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2009年05月19日

小菅修船場跡

小菅修船場跡
 1884年(明治17)、政府は官営工場の払下げ方針の下に、長崎造船所と小菅修船場を岩崎彌太郎に貸与し、三菱社長崎造船所として運営されていたが(岩崎弥太郎1885年(明治18)逝去、岩崎彌之助社長に就任)、1887年(明治20) 岩崎彌之助が大蔵大臣伯爵松方正義に長崎造船局(官営長崎造船所)の払下げを申請、全面的に払下げが行われ、翌年三菱造船所と改称された。
 これより先に、工部省は1879年(明治12)に飽ノ浦の南側にある立神に船渠(現第1ドック)を完成させ、造船能力を増大させていたが、これを受けた三菱社も以後飽ノ浦〜立神地区への投資を積極的におこなったが、対岸の小菅修船場は立地条件が悪く増強はほとんど行われず、このため、小菅修船場の業務は徐々に先細りとなり、1920年(大正9)には廃止状態になった。昭和に入り、1936年(昭和11)、小菅修船場は史蹟名勝天然記念物保存法により一部が史跡地に指定される。1937年(昭和12)短艇製作工場として復活、その後、戦時中には軍用艦艇、魚雷艇の建造、戦後には漁船の建造や修理に利用されたが、1953年(昭和28)に完全に閉鎖。
 その後、1969年(昭和44)4月国指定重要史跡として再指定される。
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2009年05月17日

小菅修船場揚架状況

小菅修船場揚架状況
 維新後明治新政府は、幕府が保有していた長崎製鉄所を管轄下に置くと共に、1869年(明治2)竣工間もない小菅修船場も、管理人となっていたグラバーから洋銀12万ドル(薩摩藩の取り分は土地代8,680ドル、売却益の25%の11,219.5ドル)で買収し、長崎製鉄所の所管とした。1871年(明治4)長崎製鉄所は工部省に移譲され、長崎造船所と改称された。1872年(明治5)には明治天皇が長崎造船所と共に小菅修船場にも行幸された。
 当時の小菅修船場の船舶修理のための揚架隻数は明治2年=30隻(11,973トン) 、同3年=24隻(11,707トン)、同4年=16隻(6,514トン)、同5年=15隻(5,059トン)、同6年=23隻(8,005トン)、同7年=26隻(10,226トン)、同8年=11隻(4,848トン)、同9年=18隻(7,302トン)、同10年=17隻(8,401トン)、同11年=12隻(5,203トン)、同12年=15隻(6,052トン)、同13年=7隻(2,895トン)、同15年=9隻(3,815トン)と続き、同16年の8隻(2,339トン)まで231隻(94,339トン)を数えた。
 また、修理の外木造汽船の向陽丸(70トン)、小菅丸(103トン)、木造曳船(192トン)などの建造も行っておる。
posted by 太鼓山 at 10:35| 長崎 ☔ | TrackBack(0) | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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