2009年11月08日

新元会

新元会(しんげんかい)
 寛政6年閏11月11日は西暦で1795年1月1日であった。この日、江戸の蘭学者大槻玄沢(1757〜1827)は同志と語らい、私宅の芝蘭堂に於いて西洋式の正月を祝った。この会は幕末頃まで続いたという。
 これは長崎の阿蘭陀正月から思いつきで江戸蘭学者派独自の催しになったものである。
「芝蘭堂(しらんどう)」とは、当時一流の蘭学者だった大槻玄沢(1757〜1827)が開いた蘭学塾のことで、沢山の知識人が集まり、蘭学の一大拠点になっていた。
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2009年09月17日

坂本龍馬とお龍の「内祝言」

坂本龍馬とお龍の「内祝言」
 坂本 龍馬:天保6年11月15日(1836年1月3日)〜 慶応3年11月15日(1867年12月10日)
 楢崎 龍 :天保12年6月6日(1841年7月23日)〜 明治39年(1906年)11月15日)

 坂本龍馬とお龍が日本人として初めて新婚旅行をしたことはよく知られているが、元治元年(1864)8月初旬、京都東山粟田 青蓮院塔頭金蔵寺(しょうれんいん たっちゅう こんぞうじ)にて龍馬(当時30歳)とお龍(当時24歳)は住職智息院の媒酌により内祝言を挙げていたという。「内祝言」すなわち内々の結婚式をしていた。なぜか、このことは今までほとんど知られていなかった。
 このことは、1889年ごろに聞き取りされたお龍の回想録に、1864年8月、青蓮院塔頭金蔵寺の本堂で、内々の結婚式にあたる「内祝言」を挙げた、との記載があるという。
 通説では慶応2年1月23日(1866年3月8日)、伏見寺田屋で幕吏に襲われた後に、故郷の姉(乙女)へ出した手紙(慶応2年(1866)12月4日)に「このたび結婚した(お龍のことを妻と明記したのはこの手紙から)」という趣旨の記述があることから、襲われた後に、西郷隆盛あるいは中岡慎太郎の媒酌で2人は祝言を挙げ、新婚旅行にいったとされている。
毎日新聞 2009年9月7日 地方版参照


坂本龍馬とお龍が「内祝言」を挙げた青蓮院塔頭金蔵寺跡地には、現在、東山ユースホステルが建っている。

坂本龍馬 お龍夫妻「結婚式場」跡
建碑場所 : 京都市東山区三条通白川橋東入五軒町112 東山ユースホステル前
京都市営地下鉄『東山駅』から徒歩1分、東山三条バス停徒歩1分

碑銘 : 坂本龍馬 お龍夫妻「結婚式場」跡
此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡
二〇〇九年九月 特定非営利活動法人京都龍馬会 建之

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2009年07月23日

長崎大水害から二十七年

長崎大水害から二十七年
長崎大水害で重要文化財、眼鏡橋も壊れた
 梅雨明けも間近のようだが、油断は禁物!! 忘れもしない、本日23日は長崎大水害(1982年(昭和57)7月23日)から二十七年。25日には諫早大水害(1957年(昭和32)7月25日)から五十二年を迎える。
いずれも梅雨末期特有の記録的な豪雨だった。尊い多数の人命を失うなど日本災害史に残る大惨事だった。
長崎大水害は1982年7月23日、長崎地方に停滞した梅雨前線が降り始めから翌24日までの総雨量は572oに達した。各地で山崩れや土石流が多発し、長崎市中心部などが浸水した。西彼長与町では、日本観測史上最大の一時間雨量187oという猛烈な豪雨を記録した。
死者・行方不明者299人、住家被害約39,000戸など甚大な被害を出した。水害後の復旧も難航し、断水、停電などライフラインが寸断され市民生活にも深刻な打撃を与えた都市災害だった。
中島川に架かる国の重要文化財、眼鏡橋も壊れた。
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2009年07月19日

芥川龍之介の見た「長崎」

芥川龍之介の見た「長崎」

 菱形の凧(たこ)。
 サント・モンタニの空に揚つた凧。
 うらうらと幾つも漂つた凧。

 路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。
 敷石の日ざしに火照(ほて)るけはひ。
 町一ぱいに飛ぶ燕。
 丸山の廓の見返り柳。
 運河には石の眼鏡橋。
 橋には往来の麦稈帽子。
 ――
 忽(たちま)ち泳いで来る家鴨(あひる)の一むれ。
 白白と日に照つた家鴨の一むれ。

 南京寺の石段の蜥蜴(とかげ)。
 中華民国の旗。
 煙を揚げる英吉利(イギリス)の船。
 『港をよろふ山の若葉に光さし……』
 顱頂(ろちやう)の禿げそめた斎藤茂吉。
 ロティ。
 沈南蘋(しんなんぴん)。
 永井荷風。

 最後に『日本の聖母の寺』
 その内陣のおん母マリア。
 穂麦に交じつた矢車の花。
 光のない真昼の蝋燭の火。
 窓の外には遠いサント・モンタニ。
 山の空にはやはり菱形の凧。
 北原白秋の歌つた凧。
 うらうらと幾つも漂つた凧。
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2009年05月26日

西郷四郎先生顕彰碑

参考
西郷四郎先生顕彰碑:長崎市諏訪体育館(長崎市上西山)
西郷四郎先生顕彰碑
西郷四郎先生顕彰碑
五段 西郷四郎
講道館柔道創開ノ際予ヲ助テ研究シ投技ノ蘊奥ヲ窮ム其ノ得意ノ技ニ於テハ幾萬ノ門下未タ其ノ右二出デタルモノナシ不幸病ニ罹リ他界セリト聞ク(ワン)惜ニ堪ヘス依テ六段ヲ贈リ以テ其ノ効績ヲ表ス
大正十二年一月十四日
講道館師範嘉納治五郎
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2009年02月13日

蕉門十哲

昨日の花見塚の内容での松尾芭蕉「蕉門十哲」とは
 蕉門十哲とは、松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指していう。
宝井其角(たからい きかく)・服部嵐雪(はっとりらんせつ)・森川許六(もりかわきょりく)・向井去来(むかいきょらい)・各務支考(かがみしこう)・内藤丈草(ないとうじょうそう)・杉山杉風(すぎやまさんぷう)・立花北枝(たちばなほくし)・志太野坡(しだやば)・越知越人(おちえつじん)・河合曾良(かわいそら)・広瀬惟然(ひろせいねん)・服部土芳・天野桃隣(あまの とうりん)
 一般的には、上記、其角から越人までの10人を指すが、杉風から越人までの代わりに曽良から桃隣の4人を加える説もある。
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2009年02月09日

江戸時代、長崎における朱印地寺社

江戸時代の長崎の寺院、神社のうち、朱印地となったのは。

、長崎における朱印地寺社は5ヶ所で、

正覚山・大音寺 (長崎市鍛冶屋町5-87)  1641年(寛永18) 御朱印地
海雲山・晧台寺 (長崎市寺町1‐1)    1648年(天保5)御朱印地
聖林山・本蓮寺 (長崎市筑後町2‐10)   1648年(慶安元) 御朱印地
鎮西大社諏訪神社(長崎市上西山町18-15)  1669年(寛文9) 御朱印地
大徳寺(廃寺)  (長崎市西小島1丁目17) 1707年(宝永4) 御朱印地
上記5ヶ所が、朱印状を下賜された。
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2009年02月08日

出島について

出島について
 1636年(寛永13)、ポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、徳川幕府は岬の突端に扇形の人工の島を築き、ポルトガル人を収容した。その面積は約15,000uであった。しかし間もなく幕府とポルトガルとの関係が悪化、1639年(寛永16)にはポルトガル人の日本渡航が禁止された。
 ポルトガル人に代わって、1609年(慶長14)より平戸で商館を開設し貿易を行なっていたオランダ人が、1641年(寛永18)に幕府の命令で出島に移された。以後、1859年(安政6)の開国までの218年間、出島は「鎖国期における西欧に開かれた唯一の窓」として日本の近世史の上で大きな役割を果たしました。
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2008年11月24日

国内初の「列福式」

国内初の「列福式」11月24日:長崎県営野球場(ビッグNスタジアム)
ペトロ岐部と187殉教者列福式
 福者(Beatus)とは、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号。この称号を受けることを列福といい、その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。

日本ゆかりの聖人・福者
 今回、教皇が列福を承認した「ペトロ岐部と187殉教者」は、徳川幕府の厳しい禁教政策のもとで信仰の自由を守りぬき、1603〜1639年に全国各地で殉教した日本人の男女信徒・修道者・司祭である。
 今回新たに福者と認められた188名のほかに、日本からは多くの聖人や福者が誕生している。「福者」は「聖人」の前段階で、さらに調査研究を進め、最終的にローマ教皇が認めると「聖人」となる。そして、「聖人」の位に列する儀式を「列聖式」と呼ぶ。
 日本ゆかりの聖人・福者には、日本26聖人(1862年に列聖)、日本205福者(1867年に列福)、トマス西と15殉教者(1987年に列聖)がいるが、いずれの列聖式、列福式も日本以外の地で行われた。今回が初めて、日本のカトリック教会が主導して列福式が日本で行なわれる。
188殉教者のうち長崎教区44人の一覧
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2008年10月21日

親指のマリア・10

シドッティの殉教
 四回の審問の結果。新井白石はシドッティの学識、それに誠実な人格を高く評価し本国送還を上策として進言しが、聞き入れられなかった。しかし、本来なら死罪となるところが、白石が中策とした切支丹屋敷での幽閉となった。
 幽閉されたシドッティがキリシタン宣教師として唯一行ったのが屋敷で身の回りの世話をする牢番夫妻長助・はるに国禁を犯して洗礼を授けたことである。それが発覚し、洗礼を授けた罪科により「詰牢」の刑に処せられ地下牢に移されるが、牢の中から夫婦に棄教することのないように最後まで励まし叫んでいたと伝えられている。
 シドッティは半年後に衰弱し1714年(正徳4)10月21日、殉教。
 結局シドッティの来日目的であった日本布教再開のための道筋をつけることは、何も適わないままであった。
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2008年10月20日

親指のマリア・9

新井白石の「親指のマリア」感
 新井白石は「親指のマリア」絵を「此女の像年の比四十ちかきほどニ見えて目をちゐりて鼻みねたちてうれはしき面躰也、頭にかつきし衣の色ハ青藍色下に着しものハ白かりしやおほつかなし」。
(この女の像は40歳近くに見え、目は落ちくぼみ、鼻筋が立ち、美しい顔かたちである。頭にかぶった衣の色は鮮やかな藍色で、下に着ているものは白かどうか、はっきりしない)と述べている。
 「親指のマリア」の額は紫檀の木でできており、長崎奉行がこの絵について記録した際には、絵の上にはガラスがはめられ、さらに額には木綿製か何かの帳が掛かっていたようである。これが赤いどんすの袋に入れてあったと記録されているが、ガラスや布類は後に失われている。
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2008年10月19日

親指のマリア・8

新井白石との出会い
 シドッティ神父は、江戸小日向の切支丹屋敷で新井白石と出会うことになる。新井白石は、シドッティの処分を決めるための取調べを行なう立場であったが、そこでの尋問から、ヨーロッパの歴史、世界の国々の事情、キリスト教の教え、世界の諸宗教などの知識を得る出会いであった。
 シドッティとの対話の内容を記したのが新井白石の「西洋紀聞」である。「西洋紀聞」は三巻からなり、諸外国の歴史・地理・風俗やキリスト教の大意と、それに対する白石の批判などが記されている。
 また新井白石は、シドッティを尋問して得た世界地理の知識などに基づいて我が国最初の組織的世界地理書「采覧異言(さいらんいげん)」五巻を著した。
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2008年10月18日

親指のマリア・7

江戸小日向(こひなた)の切支丹屋敷(文京区小日向1丁目)
 1637年(寛永14)に島原の乱が勃発、1638年(寛永15) 終結したが、幕府はキリシタンへの危機感を募らせた。平定後1640年(寛永17)、宗門改役を設置して大目付・井上筑後守政重を江戸幕府の初代宗門改役(切支丹奉行)に任命。直轄地のキリシタン摘発と弾圧を強化した。
 井上筑後守は、ペトロ・カスイ・岐部神父を取り調べたことでも知られている人物で、井上筑後守自身、かつてはキリシタンだったことから、キリスト教のことはよくわかっていたという。井上筑後守は1646年(正保3)、江戸の小日向にある自分の下屋敷内に牢をつくり、キリシタンを収容し取り調べを行なった。宣教師は一般の小伝馬牢屋敷ではなく、ここ切支丹屋敷に幽閉し、取調べ、拷問し、棄教を促した。
 この屋敷を切支丹屋敷または、山屋敷と呼んだ。
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2008年10月17日

親指のマリア・6

シドッティ捕らえられる
 シドッティは屋久島上陸後、藤兵衛という男に会い、援助を求めるが、すぐに人々の知るところとなり、捕らえられてしまった。この異国人シドッティの出現は島の長に届けられ、さらに薩摩藩を経て、宝永5年(1708)11月9日、長崎の奉行所へと連行された。長崎奉行では、出島のオランダ人カピタンの助けで来日の目的を尋問、持ち物の取調べを受けた。
 宝永6年(1709)11月1日、シドッチ神父は幕府の儒者新井白石の尋問を受けるため、身柄が唐丸駕籠で江戸小日向の山屋敷に送られた。
はじめ所持品の目録だけが長崎奉行から送られたが、間もなく所持品も送られてくる。
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2008年10月16日

親指のマリア・5

シドッティが上陸した時の持ち物
 彼が携えていた品物は、「異国人致所持候大袋ノ内諸色之覚」によると、
 悲しみの聖母の額(30×25.5p)、ミサ典書・カズラ(マント状の上祭服)・カリス(祭具・杯)・パテナ(祭具・皿)・聖遺物・アルバ(足首丈まで届く白い祭服)・スルプリ(アルバの丈を短くして縮めたようなもの)・聖香油を入れた小さな箱・十字架などミサに用いる一式の外、キリスト像・・聖務日課・ロザリオ・ディシヒリナ・数冊の教理書などであった。
 「親指のマリア」額は、長崎奉行所の記録によると「縦壱尺、横八寸五分、但裏ハ皆木にてかねのくわん打有之候、赤とんすの袋へ入候。白ドンスに赤きうら也」とある。
posted by 太鼓山 at 08:37| 長崎 | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする