2014年06月10日

時の記念日

報時所跡(桜町3)
報時所
 長崎の報時所(時鐘・時の鐘)は、寛文5年(1665)に島原町一ノ堀(のち堀町:現・万才町NTT付近)に設置されます。その後、延宝元年(1673)今籠町(現・鍛冶屋町崇福寺通り)に移転、さらに明和3年(1766)この地、豊後町(現・桜町3)に移ります。以後、長崎における唯一の報時所とされ、「鐘の辻」と呼んでいた。これは報時所が十字路(辻)にあったので、ここから「鐘の辻」というようになったという。この報時所は長崎奉行の管轄で、撞役は、寛文5年に松尾伊右衛門が任じられて以来、同家がこの職を世襲した。
 明治7年鐘楼を改築。同報時所は、明治以降は長崎県、さらに長崎市の管轄となったが、明治36年(1903)小田の原(現・どんの山)に長崎測候所が作られ、正午の観測の合図として空砲(午砲:通称ドン)を撃つようになったため廃止された。この午砲も昭和16年3月に廃止された。
写真は「鐘の辻」「長崎南蛮唐紅毛史蹟」所収

絵本:被爆クスノキの追憶 (人々に生きる力をくれた大樹の物語)
戦争、平和についてきちんと知り、考えなくてはいけない今日、この被爆クスノキの物語の中で考えてみませんか。
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2013年03月11日

長崎の信徒発見

長崎の信徒発見
 1865年3月17日(元治2年2月20日)は、日本カトリック教会にとって特別な日、世界にとっても驚くべき歴史的な日です。
 建立まもない大浦天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、美しさとものめずらしさで付近の住民たちが多数見物に訪れていた。プティジャン神父には今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないかというわずかな期待があった。
 長崎浦上村山里郷(長崎市)の住民十数名が建てられてまもない大浦天主堂を訪れ、そのうちの4、50歳くらいの女性がひとり、祈っていたプチジャン神父に近づき、「わたしたちは皆、あなたと同じ心です。」(宗旨が同じです)とささやき、自分たちがカトリック教徒であることを告白した (この女性の名は、イザベリナ杉本ゆりだったと言われている)。この人々は聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちは厳しい弾圧に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を告白し、プティジャン神父を喜ばせたのです。
 その後、プティジャン神父は密かに信者の発見に努め、長崎、五島地方で数多くの信者が発見され、プティジャンはその指導に専念する。この「信徒発見」のニュースはやがて当時のピウス9世(ローマ教皇)のもとにもたらされ、教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだという。この日は現在カトリック教会では任意の記念日(祝日)となっている。
 ピウス9世と長崎は縁があり、1862年6月8日に日本二十六聖人を列聖したのが教皇ピウス9世である。
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2013年02月02日

日本二十六聖人殉教の行程

日本二十六聖人殉教の行程
京都から長崎まで歩いた約1ヵ月
1596年 10月19日(文禄5年8月28日) サン・フェリペ号が漂着。
1596年 12月8日 秀吉は禁教令を公布。
 大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された。
1597年
1月3日  24人は京都の上京にある一条の辻で、左の耳たぶを切られ町を引き回される。
1月8日 「長崎」を処刑地として豊臣秀吉が命令を下す。
1月9日  捕らえられた24人は殉教地「長崎」を目指して堺を出発。
1月16日 岡山でペドロ助四郎と大工のフランシスコが加わり合計26人となる。
1月27日 下関へ到着。
2月4日  大村の長崎街道・彼杵宿に到着。その夜、彼杵の浜辺から3隻の舟に乗船し大村湾を渡って時津へと向かう。時津へ到着したのは夜の11時頃。
2月5日  長崎街道を歩いて西坂へと向かう。
午前10時 処刑地の西坂の丘に到着、26人は十字架に磔にされる。
正午  信仰を貫いた26人、殉教。
1862年  6月8日、教皇ピオ9世により26人は聖人に列せられる。
1865年 フランスのパリ外国宣教会は長崎に大浦天主堂を建立し、二十六聖人に捧げる。
1962年  西坂の殉教地に二十六聖人の記念碑と記念館、記念聖堂が建立される。26人の列聖からちょうど100年後。
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2013年01月31日

二十六聖人殉教とサン・フェリペ号事件

二十六聖人殉教とサン・フェリペ号事件
 二十六聖人殉教は、サン・フェリペ号事件【1596年10月19日(文禄5年8月28日)、土佐の浦戸海岸(現在の高知市)に、一隻のスペイン船が漂着・積荷の没収・スペイン人船員(時には航海長のデ・オランディアの言葉とされる)が、「スペインは領土征服の第一歩として宣教師を送り込む」といったことが秀吉を激怒させた】が直接的に引き起こしたという単純なものではなく、京都・大阪周辺での活動を自粛していたイエズス会に対して、新進のスペイン系修道会フランシスコ会やアウグスティノ会が活発に活動をしていたことが豊臣秀吉の目についたこと、イエズス会とフランシスコ会との間に意見の相違や相克があったこと、事件当時の秀吉が明の冊封使(さくほうし)の対応に忙殺されていたこと、フィリピンとの外交関係に関して秀吉に明確なビジョンがなかったことなど多くの原因が複合して起こったものと考えられている。
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2012年12月15日

三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)

三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)
三無事件の三無とは
「三無」は無税・無失業・無戦争の3つの“無し”から取られたもので、老子の「無は有に転ず」から“さんむ”ではなく“さんゆう”と呼ばれていたという。
具体的な内容は以下の通り。
無税 - 官公庁の大幅人員削減による財政収縮と公社公団の民営化
無失業 - 大規模な公共事業の実施による失業者吸収
無戦争 - ミサイルや宇宙兵器の開発による外国からの侵略の阻止
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2012年12月14日

三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)

三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)
 陸軍士官学校第五十九・六十期同窓生の青年将校で構成される右翼思想研究会「国史会」が中心になった事から国史会事件とも呼ばれる。
 1961年12月12日、警視庁公安部が新宿区須賀町のビルなど2箇所と福岡県内の一ヶ所を早朝から一斉捜索。千葉県市川市内にあった三無塾からは日本刀3振、ライフル銃1丁を押収、川南豊作他13人を逮捕。クーデター計画「三無」が発覚した。関係者は計34人にのぼった。
 一味は60年安保闘争における共産主義―左翼の台頭を危惧し、容共的な閣僚・政治家を粛清する目的でクーデターを計画。
作戦は
※ 開会中の国会を占拠、総選挙の実施
※ 閣僚を監禁し逃走者は射殺
※ 報道管制の実施
※ 自衛隊には中立働きかけ
※ 戒厳令を敷き臨時政府の樹立
なぜ公安部が計画を察知出来たのかについては内通者説、大物右翼が時の首相・池田勇人に知らせた等諸説あり、明確にされていない。
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2012年12月13日

三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)

三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)
三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)は、1961年12月12日、日本で発生したクーデター未遂事件である。
 旧陸軍出身者らが政府要人暗殺、国会襲撃などを企てた。しかし、事前に発覚して13人が警視庁に逮捕された。首謀者は川南工業社長(当時・長崎県西彼杵郡香焼)の川南豊作で、彼の三無主義(無戦、無税、無失業)から三無事件と呼ばれる。5.15事件の被告、三上卓らも計画に加わっていた。初めて破壊活動防止法が適用され、一審では8人に有罪判決が下ったが、控訴審では4人に有罪、4人に無罪。破防法については罪を問われなかった。
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2012年08月15日

今日は67年目の終戦記念日

戦争終結の詔書
 昭和天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書。1945(昭和20)年8月14日発布され、戦争終結が公式に表明された。同日、天皇は詔書を録音、翌15日正午、その内容はラジオ放送を通じて広く国民に報じられた。

[終戦の詔書]
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々惜カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ心霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負イ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 男爵 鈴木貫太郎
海軍大臣 米内光政
司法大臣 松阪広政
陸軍大臣 阿南惟幾
軍需大臣 豊田貞次郎
厚生大臣 岡田忠彦
国務大臣 桜井兵五郎
国務大臣 左近司政三
国務大臣 下村宏
大蔵大臣 広瀬豊作
文部大臣 太田耕造
農商大臣 石黒忠篤
内務大臣 安倍源基
外務大臣兼大東亜大臣 東郷茂徳
国務大臣 安井藤治
運輸大臣 小日山直登

終戦の詔書(しょうしょ) (昭和20年8月14日)
 朕(ちん)深く世界の大勢(たいせい)と帝国の現状とに鑑(かんが)み、非常の措置(そち)を以(もっ)て時局を収拾せむと欲(ほっ)し、茲(ここ)に忠良(ちゅうりょう)なる爾(なんじ)臣民(しんみん)に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米(べい)英(えい)支(し)蘇(そ)四国(よんこく)に対し其(そ)の共同宣言を受諾(じゅだく)する旨(むね)通告せしめたり。
 抑々(そもそも)帝国臣民の康寧(こうねい)を図(はか)り、万邦(ばんぽう)共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の遣範(いはん)にして、朕の拳々(けんけん)措(お)かざる所。
 曩(さき)に米英二国(にこく)に宣戦せる所以(ゆえん)も、亦(また)実に帝国の自存(じそん)と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出(い)で、他国の主権を排(はい)し、領土を侵(おか)すが如(ごと)きは、固(もと)より朕が志(こころざし)にあらず。
 然(しか)るに、交戦已(すで)に四歳(よんさい)を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦(ゆうせん)、朕が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の励精(れいせい)、朕が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公(ほうこう)、各々最善を尽(つく)せるに拘(かかわ)らず、戦局必ずしも好転せず。
 世界の大勢(たいせい)、亦(また)我に利(り)あらず。
 加之(しかのみならず)、敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して、頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷(さっしょう)し、惨害(さんがい)の及ぶ所、真(まこと)に測(はか)るべからざるに至る。
 而(しか)も尚(なお)交戦を継続せむか、終(つい)に我が民族の滅亡を招来(しょうらい)するのみならず、延(ひい)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし。
 斯(かく)の如(ごと)くむは、朕何を以(もっ)てか億兆の赤子(せきし)を保(ほ)し、皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の神霊(しんれい)に謝(しゃ)せむや。
 (こ)れ朕が帝国政府をして共同宣言に応(おう)せしむるに至れる所以(ゆえん)なり。
 朕は帝国と共に終始(しゅうし)東亜の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に対し、遺憾(いかん)の意を表(ひょう)せざるを得ず。
 帝国臣民にして、戦陣に死し、職域(しょくいき)に殉(じゅん)し、非命(ひめい)に斃(たお)れたる者、及(および)其(そ)の遺族に想(おもい)を致せば、五内(ごだい)為(ため)に裂(さ)く。
 且(かつ)戦傷(せんしょう)を負(お)い、災禍(さいか)を蒙(こうむ)り、家業(かぎょう)を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
 惟(おも)うに、今後帝国の受くべき苦難は固(もと)より尋常(じんじょう)にあらず。
 爾(なんじ)臣民(しんみん)の衷情(ちゅうじょう)も、朕善(よ)く之(これ)を知る。
 然(しか)れども、朕は時運(じうん)の趨(おもむ)く所、堪(た)え難(がた)きを堪え、忍(しの)び難きを忍び、以(もっ)て万世(ばんせい)の為(ため)に太平(たいへい)を開かむと欲す。
 朕は茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得て、忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾(なんじ)臣民と共に在(あ)り。
 若(も)し夫(そ)れ情(じょう)の激(げき)する所、濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし、或は同胞排儕(はいせい)互に時局を乱(みだ)り、為(ため)に大道(たいどう)を誤り、信義を世界に失(うしな)うが如(ごと)きは、朕最(もっと)も之(これ)を戒(いまし)む。
 宜(よろ)しく挙国(きょこく)一家(いっか)子孫相伝(あいつた)え、確(かた)く神州(しんしゅう)の不滅を信じ、任(にん)重くして道(みち)遠きを念(おも)い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操(しそう)を鞏(かた)くし、誓(ちかっ)て国体の精華(せいか)を発揚(はつよう)し、世界の進運(しんうん)に後(おく)れざらむことを期(き)すべし。
 爾(なんじ)臣民、其(そ)れ克(よ)く朕が意(い)を体(たい)せよ。

御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)

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2012年02月27日

長崎/皓台寺 大仏殿

皓台寺・大仏殿「華巌閣」
皓台寺 大仏殿
 享保8年(1723)、十一世古岳日峻の代に完成し、後改修されている。
 堂の正面に曹洞宗の唐僧東皐心越(とうこうしんえん)の書で「常寂光(じょうじゃっこう)」の竪額が掛けられ、堂内の蓮華台には高さ3.6mの昆慮舎那仏坐像が安置してあります。
 これは、延宝5年(1677)五世逆流禎順が信者の協力を得て建立されました。 佐賀の治工によって、当地において鋳造されたものであるといわれ、眉間あたりに仏舎利一顆が収めてあります。
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2012年02月26日

海雲山・晧台寺の大仏 長崎県有形文化財に

県有形文化財:海雲山・晧台寺の大仏を指定
海雲山・晧台寺の大仏・毘盧舎那仏坐像

 県教委は24日、県文化財保護審議会の答申を受け、長崎市寺町の「海雲山・晧台寺(こうたいじ)の大仏・毘盧舎那仏坐像(びるしゃなぶつざぞう)および基台」を県有形文化財に指定した。これで県指定文化財は373件となり、うち県指定有形文化財は141件目となった。

 県教委によると、毘盧舎那仏とは光で全宇宙を照らす意味が込められた仏のこと。指定された仏像は銅で造られており、高さは約3.6m。基台を含めた高さは約6.7m。同寺の五代目住職、逆流禎順(ぎゃくりゅうていじゅん)が1677年(延宝5)に建立したものです。

 毘盧舎那仏には珍しい巨大で華やかな宝冠が備わっており、中国的な造形で中国の影響を受けたとみられる。第二次世界大戦争末期、銅の供出を求められ、梵鐘(ぼんしょう)などとともに多くが姿を消した銅製の大仏が多い中、幸いにも供出を逃れた貴重な銅製の大仏。長崎の歴史を物語る貴重な資料として評価された。晧台寺は1608年(慶長13) 亀翁良鶴により創建。2009年には大仏殿と山門、仁王門が県指定有形文化財になっている。
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