2009年05月26日

西郷四郎先生顕彰碑

参考
西郷四郎先生顕彰碑:長崎市諏訪体育館(長崎市上西山)
西郷四郎先生顕彰碑
西郷四郎先生顕彰碑
五段 西郷四郎
講道館柔道創開ノ際予ヲ助テ研究シ投技ノ蘊奥ヲ窮ム其ノ得意ノ技ニ於テハ幾萬ノ門下未タ其ノ右二出デタルモノナシ不幸病ニ罹リ他界セリト聞ク(ワン)惜ニ堪ヘス依テ六段ヲ贈リ以テ其ノ効績ヲ表ス
大正十二年一月十四日
講道館師範嘉納治五郎
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2009年02月13日

蕉門十哲

昨日の花見塚の内容での松尾芭蕉「蕉門十哲」とは
 蕉門十哲とは、松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指していう。
宝井其角(たからい きかく)・服部嵐雪(はっとりらんせつ)・森川許六(もりかわきょりく)・向井去来(むかいきょらい)・各務支考(かがみしこう)・内藤丈草(ないとうじょうそう)・杉山杉風(すぎやまさんぷう)・立花北枝(たちばなほくし)・志太野坡(しだやば)・越知越人(おちえつじん)・河合曾良(かわいそら)・広瀬惟然(ひろせいねん)・服部土芳・天野桃隣(あまの とうりん)
 一般的には、上記、其角から越人までの10人を指すが、杉風から越人までの代わりに曽良から桃隣の4人を加える説もある。
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2009年02月09日

江戸時代、長崎における朱印地寺社

江戸時代の長崎の寺院、神社のうち、朱印地となったのは。

、長崎における朱印地寺社は5ヶ所で、

正覚山・大音寺 (長崎市鍛冶屋町5-87)  1641年(寛永18) 御朱印地
海雲山・晧台寺 (長崎市寺町1‐1)    1648年(天保5)御朱印地
聖林山・本蓮寺 (長崎市筑後町2‐10)   1648年(慶安元) 御朱印地
鎮西大社諏訪神社(長崎市上西山町18-15)  1669年(寛文9) 御朱印地
大徳寺(廃寺)  (長崎市西小島1丁目17) 1707年(宝永4) 御朱印地
上記5ヶ所が、朱印状を下賜された。
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2009年02月08日

出島について

出島について
 1636年(寛永13)、ポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、徳川幕府は岬の突端に扇形の人工の島を築き、ポルトガル人を収容した。その面積は約15,000uであった。しかし間もなく幕府とポルトガルとの関係が悪化、1639年(寛永16)にはポルトガル人の日本渡航が禁止された。
 ポルトガル人に代わって、1609年(慶長14)より平戸で商館を開設し貿易を行なっていたオランダ人が、1641年(寛永18)に幕府の命令で出島に移された。以後、1859年(安政6)の開国までの218年間、出島は「鎖国期における西欧に開かれた唯一の窓」として日本の近世史の上で大きな役割を果たしました。
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2008年11月24日

国内初の「列福式」

国内初の「列福式」11月24日:長崎県営野球場(ビッグNスタジアム)
ペトロ岐部と187殉教者列福式
 福者(Beatus)とは、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号。この称号を受けることを列福といい、その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。

日本ゆかりの聖人・福者
 今回、教皇が列福を承認した「ペトロ岐部と187殉教者」は、徳川幕府の厳しい禁教政策のもとで信仰の自由を守りぬき、1603〜1639年に全国各地で殉教した日本人の男女信徒・修道者・司祭である。
 今回新たに福者と認められた188名のほかに、日本からは多くの聖人や福者が誕生している。「福者」は「聖人」の前段階で、さらに調査研究を進め、最終的にローマ教皇が認めると「聖人」となる。そして、「聖人」の位に列する儀式を「列聖式」と呼ぶ。
 日本ゆかりの聖人・福者には、日本26聖人(1862年に列聖)、日本205福者(1867年に列福)、トマス西と15殉教者(1987年に列聖)がいるが、いずれの列聖式、列福式も日本以外の地で行われた。今回が初めて、日本のカトリック教会が主導して列福式が日本で行なわれる。
188殉教者のうち長崎教区44人の一覧
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2008年10月21日

親指のマリア・10

シドッティの殉教
 四回の審問の結果。新井白石はシドッティの学識、それに誠実な人格を高く評価し本国送還を上策として進言しが、聞き入れられなかった。しかし、本来なら死罪となるところが、白石が中策とした切支丹屋敷での幽閉となった。
 幽閉されたシドッティがキリシタン宣教師として唯一行ったのが屋敷で身の回りの世話をする牢番夫妻長助・はるに国禁を犯して洗礼を授けたことである。それが発覚し、洗礼を授けた罪科により「詰牢」の刑に処せられ地下牢に移されるが、牢の中から夫婦に棄教することのないように最後まで励まし叫んでいたと伝えられている。
 シドッティは半年後に衰弱し1714年(正徳4)10月21日、殉教。
 結局シドッティの来日目的であった日本布教再開のための道筋をつけることは、何も適わないままであった。
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2008年10月20日

親指のマリア・9

新井白石の「親指のマリア」感
 新井白石は「親指のマリア」絵を「此女の像年の比四十ちかきほどニ見えて目をちゐりて鼻みねたちてうれはしき面躰也、頭にかつきし衣の色ハ青藍色下に着しものハ白かりしやおほつかなし」。
(この女の像は40歳近くに見え、目は落ちくぼみ、鼻筋が立ち、美しい顔かたちである。頭にかぶった衣の色は鮮やかな藍色で、下に着ているものは白かどうか、はっきりしない)と述べている。
 「親指のマリア」の額は紫檀の木でできており、長崎奉行がこの絵について記録した際には、絵の上にはガラスがはめられ、さらに額には木綿製か何かの帳が掛かっていたようである。これが赤いどんすの袋に入れてあったと記録されているが、ガラスや布類は後に失われている。
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2008年10月19日

親指のマリア・8

新井白石との出会い
 シドッティ神父は、江戸小日向の切支丹屋敷で新井白石と出会うことになる。新井白石は、シドッティの処分を決めるための取調べを行なう立場であったが、そこでの尋問から、ヨーロッパの歴史、世界の国々の事情、キリスト教の教え、世界の諸宗教などの知識を得る出会いであった。
 シドッティとの対話の内容を記したのが新井白石の「西洋紀聞」である。「西洋紀聞」は三巻からなり、諸外国の歴史・地理・風俗やキリスト教の大意と、それに対する白石の批判などが記されている。
 また新井白石は、シドッティを尋問して得た世界地理の知識などに基づいて我が国最初の組織的世界地理書「采覧異言(さいらんいげん)」五巻を著した。
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2008年10月18日

親指のマリア・7

江戸小日向(こひなた)の切支丹屋敷(文京区小日向1丁目)
 1637年(寛永14)に島原の乱が勃発、1638年(寛永15) 終結したが、幕府はキリシタンへの危機感を募らせた。平定後1640年(寛永17)、宗門改役を設置して大目付・井上筑後守政重を江戸幕府の初代宗門改役(切支丹奉行)に任命。直轄地のキリシタン摘発と弾圧を強化した。
 井上筑後守は、ペトロ・カスイ・岐部神父を取り調べたことでも知られている人物で、井上筑後守自身、かつてはキリシタンだったことから、キリスト教のことはよくわかっていたという。井上筑後守は1646年(正保3)、江戸の小日向にある自分の下屋敷内に牢をつくり、キリシタンを収容し取り調べを行なった。宣教師は一般の小伝馬牢屋敷ではなく、ここ切支丹屋敷に幽閉し、取調べ、拷問し、棄教を促した。
 この屋敷を切支丹屋敷または、山屋敷と呼んだ。
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2008年10月17日

親指のマリア・6

シドッティ捕らえられる
 シドッティは屋久島上陸後、藤兵衛という男に会い、援助を求めるが、すぐに人々の知るところとなり、捕らえられてしまった。この異国人シドッティの出現は島の長に届けられ、さらに薩摩藩を経て、宝永5年(1708)11月9日、長崎の奉行所へと連行された。長崎奉行では、出島のオランダ人カピタンの助けで来日の目的を尋問、持ち物の取調べを受けた。
 宝永6年(1709)11月1日、シドッチ神父は幕府の儒者新井白石の尋問を受けるため、身柄が唐丸駕籠で江戸小日向の山屋敷に送られた。
はじめ所持品の目録だけが長崎奉行から送られたが、間もなく所持品も送られてくる。
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2008年10月16日

親指のマリア・5

シドッティが上陸した時の持ち物
 彼が携えていた品物は、「異国人致所持候大袋ノ内諸色之覚」によると、
 悲しみの聖母の額(30×25.5p)、ミサ典書・カズラ(マント状の上祭服)・カリス(祭具・杯)・パテナ(祭具・皿)・聖遺物・アルバ(足首丈まで届く白い祭服)・スルプリ(アルバの丈を短くして縮めたようなもの)・聖香油を入れた小さな箱・十字架などミサに用いる一式の外、キリスト像・・聖務日課・ロザリオ・ディシヒリナ・数冊の教理書などであった。
 「親指のマリア」額は、長崎奉行所の記録によると「縦壱尺、横八寸五分、但裏ハ皆木にてかねのくわん打有之候、赤とんすの袋へ入候。白ドンスに赤きうら也」とある。
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2008年10月15日

親指のマリア・4

シドッティ屋久島に上陸
 1708年10月11日(宝永5年8月28日)、九州の最南端、大隅半島の南南西約60kmの海上に位置する小島、屋久島に到着。海岸地帯には亜熱帯植物が茂り、そして樹齢千年を超える屋久杉がそびえる屋久島の沖に帆船は錨を降ろした。
 夜半、シドッティは総督とその従者数名と共にボートで島に向かい、シドッティは単独で上陸(宝永5年8月29日)、そこで総督たちと別れを告げた。
 シドッティの背丈は、6尺(約180cm)をはるかに超え、年齢40歳ほどで色白で鼻が高く、日本の武士のように頭髪は月代(さかやき)に剃り落とし、四目結いの紋を染めた浅黄色の木綿に茶色の裏地のついた着物を着、2尺4寸7分(約75cm)の刀を差し、黒木綿大袋一つ、といういでたちであった。

 ※「月代」(さかやき):別名“つきしろ”ともいい、昔、男子がひたいから頭の中央にかけて頭髪をそり落としたことをいう。
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2008年10月14日

親指のマリア・3

日本に来るまでのシドッティ
 シドッティは、日本派遣の決定後、ローマで見つけた日本語の本を使って日本語の勉強を始め、日本行きの準備をした。1703年ローマを出発、カナリア諸島でフランス船に乗り換え1704年ルソン島(マニラ)に着き、そこで日本行きの機会を待った。
 ルソン島(マニラ)は、古くから日本人町が形成されており、1614年、キリスト禁制で日本を追放された高山右近、内藤如安の子孫達も住んでいた。シドッティは、彼らからも日本語や風俗について学び日本行きの準備を進めていた。
 日本渡航には、日本布教を熱望するシドッティのために、フィリピンの総督が自費で用意してくらた船(サンティシマ・トリニダード号)であった、また、船長は提督ミゲル・デ・エロリアガがかってでた。台風のためルソンに流れ着いていた日本人の漂流民数名もシドッティの日本上陸の手助けのために同乗し、1708年8月日本に向けて出航、途中台風にも遭遇するが、とうとう日本の島をみた。
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2008年10月13日

親指のマリア・2

宣教師ジョバンニ・バッティスタ・シドッティ(1668〜1715)
 イエズス会宣教師“Giovanni Battista Sidotti ” ジョバンニ・バッティスタ・シドッティは、1668年イタリア・シチリア島のパレルモ市の貴族の家に生まれ、ローマで学び司祭となった。枢機卿フェラリに認められ、若くして要職に抜擢されていた。
 日本での再布教を望んでいたローマ教皇インノケンティウス12世の意思を継いで、教皇クレメンス11世の時代に枢機卿たちが協議した結果、日本との布教再開と友好関係を結ぶ交渉役の最初の使者となったのがシドッティであった。
 シドッティの日本についての知識と印象は「東方に位置する国で、日本以外に盛運を持った国はない。日本が世界のどの国よりも優れていることは、多言する必要がない」というものである。シドッティが、自らに課した使命は、キリスト教の布教が、領土を広げる野心をもって行なわれているという誤解を除き、キリスト教を禁じている日本の禁教令を解除してもらうことであった。
 ※ シドッティの日本派遣が、どれだけの正式なものかは不明な点があるとされる。
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2008年10月12日

親指のマリア

「悲しみの聖母(親指のマリア)」
 「親指のマリア」は、18世紀のはじめの秋の深夜、国を閉ざしてキリスト教を禁制する日本に、一人のイタリア人宣教師によって、ひっそりと運び入れられた。
親指のマリア 江戸時代の1708年(宝永5)10月12日、イタリア・シチリア島出身の宣教師ジョバンニ・バッティスタ・シドッティが大隅国屋久島に上陸。彼はすぐに捕らえられ長崎奉行所へ送られ、所持していた大袋の中身等を長崎奉行でオランダ人通詞を介して調べられた。キリスト教禁令の時代に、シドッティ神父は、なぜ禁教のさなかに危険を冒してまで日本に来たのか、また、彼が携えてきた有名な絵「悲しみの聖母(親指のマリア)」(カルロ・ドルチ作)、この絵にはどんな意味があるのだろう。シドッティ神父来日より300年、彼の生涯を、これを機会に辿ってみよう。

「江戸のサンタ・マリア」の名の由来
 シドッティ神父が携えてきた「悲しみの聖母(親指のマリア)」の絵、別名「江戸のサンタ・マリア」とも言われる。シドッティ神父が江戸で殉教したこと、また東京国立博物館で発見されたことから、宣教師たちがこの名で呼ぶようになった。
posted by 太鼓山 at 09:46| 長崎 晴れ | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする