2017年03月30日

長崎のさくらが開花しました。

長崎のさくらが開花しました
                 平成29年3月30日 長崎地方気象台発表
本日、3月30日長崎でさくら(ソメイヨシノ)が開花しました。
これは、平年(3月24日)より6日遅い開花となります。
また、昨年(3月22日)より8日遅い開花となりました。
なお、満開となるのは開花から一週間から10日程度の見込みです。
(注) さくらの開花は、長崎地方気象台では気象台の前庭にある植物季節観測用標本木により観測したものです。さくらの開花とは、5〜6輪の花が開いた状態をです。
posted by 太鼓山 at 12:57| 長崎 🌁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月05日

春を感じることが出来るスポット原種梅林「虎馬園(こうまえん)」

春を感じることが出来るスポット原種梅林「虎馬園(こうまえん)」
約180品種以上の梅の原種を集め一般に無料開放されてある梅園です。
「虎馬園」と称される遊苑は、里山が梅の花でおおいつくされているが、全体で何本あるのだろうか?。並みの梅園ではない。
3月4日に出かけたのですが見頃を少し過ぎていたようなので来年は早めに出かけようと思う。
原種梅林虎馬園:長崎県長崎市松原町(JR肥前古賀より徒歩約15分)
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posted by 太鼓山 at 17:30| 長崎 ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月01日

出島を結ぶ「出島表門(おもてもん)橋」架設

出島を結ぶ「出島表門(おもてもん)橋」架設
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 長崎市の国指定史跡「出島和蘭(オランダ)商館跡」で、出島と対岸を結ぶ「出島表門橋」が2月27日(月)、旧表門橋と同じ場所に架けられ、約130年を経て出島のシンボルが再び姿を現した。今後は橋の床板や手すりなどの取り付け、周辺の公園整備等が行なわれて2017年11月24日に開通する予定。
 鎖国期、出島に人の出入りができる唯一の表門橋。出島が完成した1636(寛永13)年には板橋だったが1678(延宝6)年に全長4.5mの石橋に架け替えられ、明治期に行われた長崎港湾改良工事・中島川の変流工事に伴い1888〜89年頃に撤去された。
 変流工事の際に出島の北側が削られ対岸との距離が長くなったことで、今回の表門橋は長さ約38.5m、幅約4.4mの鋼鉄製となり、旧表門橋の復元ではなく現代的なデザインが採用された。史跡である同商館跡の保護のため、重量の支点を江戸町側に置く特殊な構造となっている。
 完成後は当時の人と同じ目線で、往時のように橋を渡って出島への出入りが体験できるようになる。
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2017年02月15日

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」展覧会
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フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツの医者で博物学者)
 シーボルトは1823年(文政6)に出島のオランダ商館付医師として長崎に赴任、近代西洋医学を教授するなど、江戸時代出島に滞在した外国人として長崎では馴染みのある人物の一人です。
 1829年(文政12)に国外追放処分になり、ヨーロッパへと戻ったシーボルトは処分が解かれた1859年(安政6)に再び来日、江戸幕府の外事顧問となります。
 二度にわたる日本滞在中、シーボルトは日本の自然や生活文化に関わる膨大な資料を収集、日本コレクションを形成しヨーロッパへ持ち帰っています。
本展覧会ではシーボルトによって持ち帰られた日本関係資料のうち、約300点の作品が里帰りします。
開催期間 : 2017年2月18日(土)〜2017年4月2日(日)
開催場所 : 長崎歴史文化博物館・3F企画展示室:長崎市立山1-1-1
開催時間 : 10:00〜18:00(最終入館17:30)
休室日: 2017年3月13日(月) ※ 前期・後期で展示の入れ替えがあります。
観覧料: 大人1,200円(前売1,000円)高大生・70歳以上700円(前売500円)※中学生以下無料 
前期購入チケットで、後期観覧料が通常料金の半額
詳 細長崎歴史文化博物館公式ホームページへ
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2017年02月03日

庭に訪れためじろ

毎年、庭のサザンカの木にミカンを置いていると、毎年訪れてくれる「めじろ」なのか分かりませんが今年もやってきた。可愛い小鳥です。
最初の日は1羽でしたが、翌日は彼女か彼氏か友だちを連れてきて仲良くミカンをついばんでいました。
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翌日2月3日 2羽で仲良くミカンをついばんでいました。
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1羽が周りを警戒しているようです、近くに猫がいるのでしょう。
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posted by 太鼓山 at 17:22| 長崎 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月23日

今日の長崎は雪だった!

朝から窓を開けると外は真っ白な雪化粧!
 雪を見る日が少ない長崎では子供達は大喜び、登校する道すがら友だちと雪を丸めて雪の投げ合いで楽しんでいました。

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posted by 太鼓山 at 13:24| 長崎 ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月02日

長崎港に大型客船マリナー・オブ・ザ・シーズ入港

9月2日、空も海のおだやかな早朝、長崎港に大型客船マリナー・オブ・ザ・シーズが乗員¬乗客約3,800人を乗せて入港しました。
マリナー・オブ・ザ・シーズ
2日(火) 松が枝岸壁着岸
入港 8:00 出港 18:00  前港 博多 次港 上海/中国
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「Mariner of the Seas」
船会社:ロイヤルカリビアン・インターナショナル(アメリカ)
総数トン:137.276トン
全長:310メートル
全幅:48メートル
船籍:バハマ
巡航速度 :22.0ノット
就航年 :2003年11月
乗客定員 :3114人
乗組員数 :1185人
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2014年08月19日

「産女の幽霊」像にまつわる民話

長崎市伊良林町の光源寺に残る「産女の幽霊」像にまつわる民話

 昔、長崎の麹屋町に一件の飴屋さんが、ありました。
 今日も、あたりが暗くなってきたので飴屋の主人は、戸締りをしてやすもうかとしていました。
そのときです。トントン トントン・・・・と、表の戸をたたく音がします。
「もうし・・・・こんばんは・・・・すんまへん・・・」京なまりの女の人の声です。
 こんな夜更けにだれやろか???と主人は、寝床から立ち上がり、戸を少し開けてみると、そこには真っ青な顔をし、白い着物を着た若い女の人が立っています。
 「こんな夜更けになんの用ですか!」と主人が尋ねると、「すんまへん、飴を、飴を売っておくれやす」か細い声で言って、一文銭を差し出しました。
 「一文がとね」主人は、飴を紙袋に入れ手渡した時、一寸触れた女の人の手が氷にでもさわったようにヒヤーッとしました。女は、飴を手にするとすっとかき消えました。主人は戸を閉めて“あ〜気味の悪さ、一体どこの女じゃろか?元気のなかおなごじゃ”とつぶやきながら、布団にもぐりこみました。
 ところが翌晩も、またその次の晩も女の人は飴を買いにきたのです。それから、七日目の晩。
 主人は思いあまって、町内の若者たちを集めて相談し、この女の後をつけ、今晩こそどこの誰かをつきとめようと何くわぬ顔して待ちました。やはり今晩も女の人はやってきました。今までと違い、なんともいえないくらいにさびしそうな顔をしています。「すんまへん、今日はお金がなくなってしまいました。どうぞ飴をめぐんでくれはりますか。」
 聞きとれないほど細い寂しい声です。主人は気味の悪さも忘れ、あわれに思い飴を気持ちよく分けてあげました。女の人は喜び、何度もお礼をいいながら真っ暗になった寺町の方へと出て行きました。
 打ち合わせどおりに主人は若者たちと見えかくれし後をつけて行きました。シーンとした人影のない寺町通りをすぎて伊良林へと角をまがり、どんどんと行きます。一体どこへ・・・・・とみなが顔を見合わせながらつけていくと、光源寺の山門をくぐり石段をのぼり、本堂横の暗がりの墓へ。こりゃ、いよいよおかしかばい、ひょっとすると・・・・・・と、首を傾げながら見つめていると、女の人は新仏の墓の中へスウーッと消えるように入っていった。何だか見てはならないものを見てしまったようで、背筋にゾゥーっと寒気が走り、みんなは一目散に逃げ帰りました。
 夜の明けるのもまった飴屋と若者たちは、さっそく伊良林の光源寺に出かけ住職をたずねました。
 一部始終を聞いた住職は、手をあわせ「世の中には不思議なことが多いものじゃ、しかしこの光源寺でそのようなことがあろうとはのう・・・・」と、しばし考えていたが、早速に墓守を呼び、鍬を持ってこさせ、住職は飴屋の主人に墓に案内するよう言い、住職の後には若者たちと墓守が神妙な顔で従います。
 その墓は、新しく土盛がされていて、その手前には燃え尽きた蝋燭と線香の灰が葬られたときのそのままでした。
住職の読経がすみ、みんなが念仏を唱えるなかを、墓守が新仏の墓に鍬をいれました。すると・・・、なんと生まれてまもない元気そうな赤ちゃんが母親のお腹の脇に丸くなり、飴をしゃぶっているではありませんか。びっくりした一同は、拾い上げた赤ちゃんを袢纏に包み、急いでお寺へつれていきました。
 この女は葬られた時に入れてもらった、冥土への6文銭を一文ずつ使って、毎日のように赤ん坊に飴を買い与えていたのです。
住職は新仏の墓の持ち主を調べたところ、それは筑後柳川(現:福岡県柳川市)出身で地元では、左甚五郎とまで呼ばれた長崎在住の藤原清永という宮大工ということが分かった。
 さっそく住職は、墓を建てた清永のもとに墓守を走らせ事と次第を伝えさせた。
 そして住職の計らいで、赤ちゃんは父親である清永のもとで育てられることになり、飴屋の主人や町内の若者たちは、「ほんとうによかったのう、よか功徳になったばい。今夜からはゆっくり寝るばい」と、喜びました。
 さて、この赤ちゃんの父親、藤原清永とこの若い母親とはどういう関係だったのでしょうか?
 延享時代(1744年〜1747年)、清永が仏像の彫刻修行で京都に滞在している頃、泊まっていた宿の女の人と恋仲になっていたのですが、長崎の親元から急いで戻るようにと矢のような催促です。清永はいたしかたなく「必ず迎えに戻ってくるから・・・」と、恋人に固い約束をして後ろ髪をひかれる思いで、京を発ったのです。
 清永が長崎に戻ると、そこには親が決めた嫁になる人が待っていました。気の弱い清永は京都にいる恋人のことを口に出せないまま、とうとう親からいわれるままにその女の人と結婚してしまいます。
 一方、京都の恋人は藤原清永の言葉を信じ、迎えを今日か明日かと指折りかぞえて心待ちにしていましたが、待ちきれず、恋人は清永の子を身ごもった身体で長崎まで清永を訪ねて一人旅をすることになりました。
 長い道のりと一人旅の心細さを踏み越えてやっと清永がいる長崎についてみると、恋い慕ったあの清永が、他の女の人と結婚していることを聞き絶望の渕に突き落とされ、はりつめていた心もくずれおちてしまいました。あまりの悲しさ、くやしさに加えて、長旅の疲れがどっと出て、とうとう病の床につくと同時に、一人寂しく死んでしまいました。
 自分を追って長崎に来た恋人の死を伝え聞いた清永は、以前宮大工の仕事をした縁のある光源寺の本堂の裏手に手厚く葬ったのです。
 でも、その赤ちゃんはお墓の中で生まれて立派に育っていたのです。死んでも死にきれなかったこの母親は、棺に入れられていた冥土への一文銭六枚を毎晩、一枚ずつ手にもち、乳が出ないお乳のかわりに飴を買いに通っていたのです。お母さんの子を思う心の素晴らしさに感動せずにはおられないではありませんか!!
 それから、幾日か経った夜更けにまた、あの女の人の幽霊が飴屋に姿を見せました。
 主人が眠りに付こうとしている時です。トントン、トントン・・・・と戸をたたく音「もうし、すんまへん」「もうし・・・・」と、聞き取れないほどのか細い声です。
 主人は心臓が止まるくらいびっくりしました。また、あの女の声です。引き寄せられるように表の戸をソロリソロリと開けてみると、やっぱりそうです同じ白い着物を着たあの女の人です。でも、今までと違って、嬉しそうで優しい顔でした。
 「あんたはんのおかげで、子どもは父親の元で育ててもらえるようになりました。今夜はご恩返しをしたい気持ちがいっぱいで、やってまいりました。お礼に何ぞ差しあげとうおすが、困っていることがありましたら、遠慮せずおっしゃっておくれやす」というのです。
 飴屋の主人はしばらく考え「うーん、このところ長崎は雨が降らんけん水がいっちょんなかとたい、みんな困っとっとですたい。でくるじゃろうか?」
「はぁー。そないに困っとるのどすか・・・。それじゃー、明日朝早ゆーちに、うちの赤い櫛が落ちている所を掘ってみておくれやす。きっときれいな水が湧き出しますよ。ほな、ほなさいなら、ほんに、おおきに・・・・。」
 腰をかがめお礼を言うとスウーと、消えて行きました。主人は怖ろしさでヘタヘタと座り込んでしまいました。
 主人は一睡もできませんでした。それでも、翌朝、町内付近をあちこちと櫛を見つけて回りました。あったっ! ありました。寺町から麹屋町に通じる坂道を下りたすぐそばに、赤い女物の櫛が落ちていました。おそるおそる櫛を拾い上げ、大事に懐にしまい、みんなとそこを掘りはじめました。鍬を一振り、二振り、・・・・十振りもしないうちに、チャポッと水音がして、こんこんときれいな冷たい水が湧き出してくるではありませんか。みんなは飛び上がって喜びました。
「ワァーッ!水が出たぞー、町に水が出たぞう!!」付近の人は朝早くから何の騒動か、目をこすりながら水の周りに集まってきました。飴屋の主人が身振り手振りで「実はかくかく、しかじか・・・」と一気に説明をしました。町内の人たちは、もう水で苦労をすることがなくなったのです。「よかった、よかった。」と女の人に感謝しました。
 その後、町内の人たちの協力で立派な井戸が作られました。その井戸はどんな干ばつの年でも水は渇れることなく、何時も地面すれすれまできれいな水をたたえ町内の人々をはじめ遠くの人々の喉を潤おしました。
 その後、この井戸を人々は『麹屋町の幽霊井戸』と呼ばれるようになりました。この井戸は町の賑わいとともに埋められ、今、麹屋町の道路脇に、ひっそりとその跡を残しております。

新刊 絵本・「被爆クスノキの追憶」人々に生きる力をくれた大樹の物語
紀伊國屋・メトロ書店・楽天ブックス他ネットストアにて取扱中
posted by 太鼓山 at 08:41| 長崎 ☁ | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月28日

戦争や平和に関する日

長崎へ平和学習で訪れる修学旅行生が質問してくる戦争や平和に関する日。

●東京大空襲記念日
 1945(昭和20)年3月10日深夜0時8分、東京でアメリカ軍B9爆撃機344機による焼夷弾(しょういだん)爆撃があった。死者約10万人、焼失家屋約27万戸という、第二次大戦で最大級の被害を出した。

●慰霊の日 [沖縄県]
 1945年4月1日にアメリカ軍の沖縄本島上陸によって本格的に開始された沖縄戦は、第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)をはじめとする司令部が自決した1945(昭和20)年6月23日をもって、第二次大戦の沖縄における組織的戦闘が終結したとされている。80日にもおよぶ地上戦で、住民を中心におよそ20万人もの犠牲者を出した。

●長崎県佐世保大空襲
 第二次世界大戦中のアメリカ軍による、1945(昭和20)年6月28日の深夜11時50分から翌29日深夜2時頃までに行われた長崎県佐世保市に対する空襲(戦略爆撃)。
当夜は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突いたものであり、死者が1,200人以上に及んだ。
佐世保市では毎年6月29日に空襲犠牲者の追悼式を行っている。

●終戦の日 (一般に戦争が終結した日をさす)
 日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、全国戦没者追悼式を主催している。一般にも同日は終戦記念日や終戦の日と称され、政治団体・NPO等による平和集会が開かれる。
日本において第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))が終結したとされる日については諸説あり、主なものは以下のとおりです。
1.1945(昭和20)年8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日。
2.1945(昭和20)年8月15日:玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送)により、日本の降伏が国民に公表された日。
3.1945(昭和20)年9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。
4.1952(昭和27)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日。


●1941(昭和16)年12月8日
真珠湾攻撃・日本、英米に宣戦布告(太平洋戦争(大東亜戦争)開戦)。
真珠湾攻撃(日本時間1941年12月8日未明)
 休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃。
 日本陸軍が英領マレー半島のコタバルに上陸(マレー作戦)。その直後に日本海軍もハワイの真珠湾を攻撃(真珠湾攻撃)し、ここに太平洋戦争が勃発した。12月8日にアメリカ・オランダが日本に宣戦を布告。12月9日には日本と英米蘭の間で開戦したことを受け、これに乗じて中華民国が日本に正式に宣戦布告。日本が参戦したことで12月11日、ドイツ、イタリアがアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実ともに世界大戦となった。
posted by 太鼓山 at 10:54| 長崎 ☁ | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月25日

集団的自衛権、なにか日本国民人は人ごとのようだ!? 

集団的自衛権、なにか日本国民人は人ごとのようだ!? 
 集団的自衛権の行使容認が閣議決定されそうな勢いだ。解釈変更による「改憲」が国民投票も経ないまま、時の内閣の独断の判断で決まっていいのか。安全保障政策の大転換なのに議論は今一つ盛り上がらない。大事なことがスーッと決まってしまいそうなこの感じだ。
前にも書いたが若い人は平和な温室につかりすぎている。70年前の戦争時代へと戻ろうとしているのに。
いかれ、立ち上がれ若者よ!!
posted by 太鼓山 at 20:12| 長崎 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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