2008年01月13日

古賀人形

 偶然にも古賀の里で古賀人形に手を触れ見る機会ができ写真を撮ってきました。

古賀人形
 古賀人形は長崎市の郷土人形で、京都の伏見人形、仙台の堤人形とともに「日本三大土人形」に数えられている。長崎の古賀人形は、他の土地の土人形と違い、外国文化を取り入れた、独特のモチーフで作られていた。
 古賀人形の由来は、古賀人形に添えられている栞によると、天文年間(1532〜55)大村藩士であった小川金右衛門が、古賀村で農業を始め、3代目の小川小三郎の代に、京都の土器師(はじし)常陸之介が日本漫遊の途中に小川家に滞在して、土器製造の秘法を教えました。小三郎は農業のかたわら副業として神仏用の土器を作り、晩年には小さな人形をも作り始めました。
 天和年間(1681〜4)6代目、喜左衛門の代には土器製造の師範として肥後国に招かれ、同地の人形の状況を視察、古賀人形の発展につくしました。
 その頃より、オランダ、中国などとの貿易が盛んとなり、九州の諸大名は「長崎詰め」を置くようになります。その折り、長崎港への街道筋にあたる古賀村(現:長崎市中里町藤棚)の「小川家」は休憩所となり、帰りの武士は土産に「古賀人形」を求めたといいます。
 文化年間(1804〜18)小川金兵衛時代より、三月の雛祭り用の人形を作り、販路を大いに拡張しました。明治42年頃には一族三家で製造していましたが、その後、今の小川家1軒となりました。
 古賀人形の伝統は現在、18代目小川亨氏と19代目の憲一氏によって制作されており、すべて手作業による制作。

代表作品「紅毛婦人(こうもうふじん)」
紅毛婦人(こうもうふじん) 西洋の女性とその傍らに子どもが寄り添った人形。 このモデルとなったのは1817年(文化14)、商館長として出島に赴任のヤン・コック・ブロムホフ商館長夫人ティツィア・ベルフスマ。
 ティツィア・ベルフスマは、1817年、新商館長として赴任する夫とともに来日、大評判となった。当時、出島では、商館長以下全員が単身赴任で、家族の同伴は認められていなかったが、ブロンホフ(当時38歳)は規則を破って夫人(当時31歳)と息子ヨハンネス(2歳)、乳母、召使い四人と共に来日。長崎奉行は「病気がちのブロンホフの看病のために妻子の同伴が必要である」と幕府に報告。しかし、妻子の滞在は認められず、夫人らはオランダへ強制送還された。しかし、ティツィア・ベルフスマの美しい姿は、長崎の画家たちの格好のモデルとされ、絵画や長崎版画、工芸品などに採用、販売され全国に広まった。
紅毛婦人(横から)紅毛婦人(後から)
鉄砲をもったオランダ人
鉄砲をもったオランダ人鉄砲をもったオランダ人

posted by 太鼓山 at 09:58| 長崎 曇り| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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