長崎代官は、1588年(天正16)に豊臣秀吉によって任じられた鍋島飛騨守直茂がその最初で、直茂の後任には、村山等安が任じられた。等安の生まれは不明であるが、秀吉に認められ、朱印船貿易家として秀吉お気に入りの呂宋壷(中国で作られた質素な壺で日本では茶道の道具として使われた)の買い付けなどをしていたといわれる。しかし、1616年(元和2) [1619年(元和5)?説も]、末次平蔵政直にキリシタンであると訴えられ罷免し甲斐に流され後、江戸で処刑された。等安に代わって代官に任じられたのが、博多商人の末次平蔵政直で、以後、末次家は、2代・茂貞、3代・茂房、4代・茂朝と続いた。しかし、末次家も、1676年(延宝4)4代・茂朝のときに国禁品の密貿易が発覚、茂朝父子は隠枝に流罪、茂朝の母長福院やその家族は壱岐に流されるなど、関係者はことごとく処罰された。そして、巨額の財産は全て没収され、末次家は断絶した。
末次家没落後、代官事務は町年寄のうち2人が加役(兼務)で外町を支配、長崎代官の制度がなくなる
長崎歴史文化観光検定(長崎検定)復習問題
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