2014年08月14日

長崎の盆(精霊船の由来)

長崎の盆(精霊船の由来)
 精霊流しの起源には諸説があり、今日でも、まだ定説はありません。代表的なのは、中国の「彩舟流し(さいしゅうながし)」という風習が伝わったものだと言われています。
 この「彩舟流し」は中国との貿易が盛んな頃、航海中また長崎に来て滞在中に亡くなった唐人の諸精霊を故郷の中国へ送る行事であったといわれています。「彩舟流し」には簡単な「小流し」と大規模な「大流し」の二つがあり、「小流し」は年毎、あるいは2〜3年毎にまとめて行なわれ、「大流し」は、20〜30年に1回行なわれていました。
 「小流し」は約3〜4m程の模型唐船(彩舟と呼ぶ)を作り、食物やその年に亡くなった人数の人形を乗せ、唐寺の僧侶により「御経」があげられて諸精霊を供養した後、海岸にだして焼いき、合わせて航海安全の祈願をしていました。
 「大流し」は長崎滞在中に亡くなった唐人が数年から十数年過ぎて100人を超え唐船1隻に乗り込む役割や身分が揃うと、実物大の唐船を作り、色んな役割や身分に似せた人形と、食べ物、積荷を乗せ、三唐寺の唐僧により読経が行なわれ後、港の中を回航して港口の浜(神崎鼻先の白洞)で船を焼き、諸精霊を故郷の中国へ送ります。この「彩舟流し」が今日の精霊流しにつながっていると考えられています。
 他説には、享保(1716〜1736)年間の頃、長崎聖堂(中島聖堂)の学頭でもあり、のち幕府の天文方(てんもんかた) という役職についた、儒者で唐通事・廬草拙(ろそうせつ・西山神社を建てた人物)が、市民が精霊物を菰(コモ)包み川に流している姿を見て、これではあまりにも霊に対して失礼だというので、藁で小舟を作り精霊物を乗せて流したという記録があります。
 他に、長崎市史の風俗編には、「弘誓(ぐぜい)の船」より思いついたものであろうという古賀十二郎の推察説があります。
弘誓とは、仏・菩薩が人々を苦から救って彼岸に送るのを、船が人を渡すのにたとえた語。
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posted by 太鼓山 at 16:05| 長崎 ☔ | TrackBack(0) | 文化と風習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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